スタイルチェンジ #8

 


 末っ子、襲来。

 


  一瞬にして一花の苛立ちは空の彼方へ吹き飛んだ。独占欲の強いわがまま少女の一花でも、修羅場待ったなしのこの状況でむしろ見せつけてやりたい、と思えるようなメンタルは所持していない。


(でも、二乃相手だったら、正直……いやいや、さすがにヤバいか。ちょっとそそるものはあるけど……ダメだな、私)


   相変わらずの自分の意地悪さに辟易しつつも、一花は外したボタンを付け直し服装を整える。あまり五月を待たせると、風太郎の家族が帰ってきて鉢合わせしてしまう可能性もあるのだ。時間に余裕はまったくない。


「い、五月……なんでこのタイミングで……でも、他のやつらじゃないだけマシか……?」


 予想外の来客に、風太郎はまだ気持ちの整理がついていないようだ。だが、うろたえている姿も一花にはとても可愛らしく見える。ならば、ここは彼女として愛する彼氏の為に人肌脱ぐ場面だ。一花はお姉ちゃん&女優モードにスイッチを切り替えて、風太郎に話しかける。


「うーん、さすがにこれは中断しなきゃだね……大丈夫、お姉さんにまかせてっ、フータロー君」

「……一花?い、いや、ここは俺が行く。お前は靴持って風呂場にでも隠れて───」


   一花はウインクをしながら人差し指を風太郎の唇に当てる。指に伝わる風太郎の唇の感触に再びキスしたい欲を抑えつつ、お茶目な笑みを浮かべ一花は告げる。


「心配無用だよっ♡  だって私は、嘘つきだもん。だ・か・ら……おとなしく、してるんだぞ♡」


 今こそ風太郎が褒めてくれた、立派な嘘つきとしての女優魂を見せる時だ。一花は立ち上がり、玄関へ向かう。そして、自分がこの場にいるのが当然と言わんばかりの堂々とした素振りで、ドアを開けて五月を出迎えた。


「はーい五月ちゃん、いらっしゃーい」

「!?  ええっ、いっ、一花!?  どうして、ここに……」

「えへへー。なんででしょーかっ」

「まっ、待ってください!あなた、今日お仕事だったはずでは……?」

「もうとっくに終わったよー。だから、フータロー君と、ふたりっきりで……きゃっ♡」

「ど、どういうことですか!?」


 風太郎との時間を思い出し、自分の右頬に手を当てて余韻に浸る一花。その蠱惑的な姿に、真面目な五月は顔を赤くし一花を問い詰める。それが一花の狡猾な罠だとも知らずに。


「えー、五月ちゃんだってわかるでしょ?  男と女が二人きりでヤることなんて、そんなの決まってるじゃん♡  フータロー君が私を求めてくれて、嬉しかったなぁ……」


 この状況で、風太郎とのイチャイチャを五月に伝える理由。五月を煽るだけでメリットはないように思えるが、嘘つきの一花はよく理解している。

 嘘を信じ込ませる時のコツは、ある程度の真実を交えて説得力を持たせることだ。一花が応じた時点で、いくら否定しようが五月の心には少なからずサボりなのではないか、という疑念が生じているであろう。そこを敢えてすぐには否定しない。五月が危惧した通りになってしまった、という焦りを見せたところですかさず本命を切り出すのだ。


「そ、そんな、あなた、まさか……はっ!?」

「もうっ、相変わらず五月ちゃんはカワイイなー。じょーだんだよっ、じょーだん。仕事終わってフータロー君に連絡したら風邪で休みって聞いたから、看病してたの」


 大胆な発言の後に、一花は四葉のような歯を見せる悪戯っぽい笑みを浮かべる。この表情によって、五月は一花の発言を自分をからかっただけだと誤認するであろう。なにより、このような大胆な発言は中野一花という普段のキャラクター的にもまったく違和感はない。長女として妹をよく理解しているだけでなく、女優としての演技力を兼ね揃えている一花だからこそできる芸当だ。


「よ、よかった、そういうことでしたか……でも、心臓に悪すぎます!  いくら冗談でもタチが悪いです!」

「からかっちゃってごめんね。もちろん私も何もなければ学校行こうと思ったんだけど、らいはちゃんも学校じゃない?  誰も看病できる人がいないから、フータロー君が、心配で……」

「……なるほど。確かに、その考えはごもっともですね」


 実際に、効果は抜群のようだ。青ざめていた表情の五月だったが、すでに落ち着いて平静を取り戻している。

 表情は心配の色を浮かべている一花だが、本心はそんなことはない。表情と声の抑揚に変化をつけることは、女優として朝飯前である。このままうまく誘導すれば、やり過ごせる。あとは彼女と一緒に帰宅すれば、一花の完全勝利だ。今日はもう風太郎の顔を見ることは叶いそうにないが、しかたない。

 これが警戒されている二乃であれば即修羅場なのだが、今回は一花にとって相性がよかった。無事に思惑通りに事が進み、一花は心の中でほくそ笑む。しかし、まだ油断してはいけない。一花は慎重に五月を安心させるような言葉を選び、何事もなかったことをアピールする。


「そういうこと。五月ちゃんも、フータロー君を心配して来てくれたんでしょ?  二人がすっかり仲良くなったみたいで、お姉さん嬉しいなー」

「……ま、まぁ……上杉君は友達、ですから。ついでにらいはちゃんのカレーも食べれたらななんて、思っていませんからね」

「あれ、そっちが本命?  とりあえず、フータロー君今は落ち着いて寝てるから、大丈夫だと思うよ。だから五月ちゃん、カレーはまた次の機会にして一緒に───」

「そういうわけだ。悪いな、五月。無駄足運ばせちまったみたいだな。あと、らいははまだ帰ってきてないぞ」

「!?」


 彼氏、参上。


「えっ、ちょっ、フータロー君!?  あっ、おっ、起こし、ちゃった……?」

「上杉君……体調は、大丈夫なのですか?」

「聞いての通りだ。授業に勤しんでいるお前たちに頼るのは申し訳なくて、一花に甘えることにしたんだ。ありがとな。でも、おかげですっかり回復した」

「え、えっと……うん。元気になったみたいで、よかったよ」

「…………」


 玄関で五月の相手をすることで風太郎の仮病を悟られないように考えていた一花にとって、風太郎の登場は想定外であった。動揺が声にも表情にも表れてしまうが、それでもなんとかアドリブでこの場を取り繕う。

 でも、厳しいかもしれない。心なしか五月の視線は訝しげなものに変化している気がする。


「まぁ、そんなわけで俺はもう大丈夫だ。心配かけさせたようで、すまなかった。明日からは普通に登校できると思う」

「……わかりました。お大事になさってくださいね」

「せっかく来てくれたのに悪いな。あいつらによろしく言っといてくれ」

「……じゃあ、私も帰ろうかな」

「……そうか」


   風太郎と二人きりの時間を手放すのは心苦しいが、五月を一人で家に帰らせるわけにはいかない。五月は姉たちに風太郎と一花が二人でいたことを話す可能性がある。一花はそれを望んでいない。


(それだけは絶対に避けなきゃ。このタイミングでバレるのは困るし……なによりフータロー君の目標のためにも、私も含めてみんな仲良し五つ子の生徒でいなくちゃいけないんだから)


   不安の芽は潰さなければならない。看病という嘘の出来事であっても、自分が風太郎といたことを二乃や三玖に知られてしまったら、かなり厄介なことになる。そんな考えから一花も五月に続き、靴を整えて上杉家を去ろうとしたのだが、そこに彼氏の声が突き刺さる。


「一花、ちょっと来い」

「んー?  どうかした?」

「今日は本当にありがとな。お前のおかげで、良い一日を過ごせたわ」

「そ、そう、かな?……えっと、どうしたしまして」

「気をつけて帰れよ。もしお前が体調崩したら、今度は俺が看病してやるからな」


 一花は風太郎に腕を引き寄せられる。そして彼は、耳元で───

 

 

 


「……その、続きは……また今度な」

 

 

 

 

「一花、聞きたいことがあるのですが」

「…………」

「……一花?  聞こえていますか?」

「は、はいっ!  どうしたの、五月ちゃん?」

「上杉君とは、本当に何もなかったのですか?」

「むー?  ひょっとして私、信用ない?」

「そんな、拗ねないでください。そういうわけではありませんよ」


 上杉家からの帰り道。同じ顔の少女が二人、横並びで歩いている。姉妹とわからない者には異様な光景に見えるだろう。

   一花の疑問に対し穏やかな笑みを浮かべる五月。母であることを望む末っ子は、姉である一花に確認したいことがあった。足を止めて立ち止まり、自分の想いを一花に語る。


「私は、一花のことを本当に尊敬しています。この数ヶ月間あなたはずっと、私たちのために生活費をひとりで負担してくれていました。私も働くようになって、一花がどれほど大変な思いをしていたのかを知りました」

「あはは……働くのって難しいよね」

「はい。年明けからひとりだけずっと仕事と勉強の両立を頑張っていたあなたは、とても立派な長女です。だから、みんなのために頑張れる一花には、幸せになってほしい。心からそう思っています」

「……ありがと」


 無論、一花だけではない。姉全員の幸せを、五月は願っている。だけど、一花は。


「昔はあんなにやんちゃだったのに、変わりましたね。ですが、そんな率先して変わってくれた一花だからこそ、みんな信頼しているのですよ」

「本当に、そうかな。私は、何も変わってなんか……」

「もう、自信を持ってくださいっ。でも、私たちは……そんな一花の優しさ、在り方、その強さに……甘えすぎていたのかもしれませんね」


 姉としての責任感の強い一花は、自分の弱さを妹たちに一度たりとも晒すことはなかった。少なくとも五月の記憶にはほとんどない。それなのに一花はいつも笑顔で、優しく五月たちを包み込んでくれた。


(私たちは五つ子なのに。一花はいつだって、私たちのことを考えて……)


 今の五月にはそれが辛い。五つ子なのに、母親なのに、一花の立場になって考えてあげることができなかった。姉である一花なら自分でなんとかするだろうと、それが一花の当たり前なのだろうと、決めつけていたのだ。それは、見方によっては突き放すような無慈悲な信頼である。本当は、一花だって頼りたいと思うことがあったかもしれないのに。


「一花、私たちは五つ子です。五つ子は喜びも悲しみも、全て五等分です。それなのに、あなたは……ずっと、私たちの姉でいてくれました。だから、なんですよね。あなたが上杉君を好きになった理由、ようやくわかりました」

「!?」

「やはり、そうなのですね。仕事というのも嘘なのでしょう?今日はずっと二人だけで、過ごしていたとみました」

  

 驚愕と焦りの入り混じる表情を見せる一花。いくら女優として演技に慣れていても、核心をつけば揺蕩う様を見せるのはまだ彼女が年頃の少女であるという証明だ。一花が嘘をついていたことに対する怒りは一切ない。むしろずっと遠くへ行ってしまったと思っていたばっかりに、少し五月は安心感を覚える。


「ど、どうして……」

「あなたたちの様子を見る限り、あなたの恋がうまくいったことは察しがつきます。思えば林間学校の時には、すでに信頼を寄せていましたものね。……おめでとうございます、でいいのでしょうか」


 五月は素直に祝福の言葉を口にする。だが、一花が五月に向ける視線はとても冷ややかなものだ。


「……そっか。そういえば、五月ちゃんには見られてたっけね。で、どうするの?」


 冷徹な瞳と声で五月に圧をかける一花。五月が初めて見た、普段の一花からは想像もできない一面。しかし、五月は臆することはない。答えなど、最初から決まっているのだ。


「どうするの、とは?」

「みんなに、私とフータロー君のこと、言うの?……悪いけどお姉さん、それは絶対に認めないから。フータロー君の目標のためにも、今はまだこの関係を知られるわけにはいかないの。そのためなら、私は五月ちゃんに嫌われたって───」

「安心してください、そんな今すぐ言うつもりはありません。それがあなたたちにとって不都合だってことは、私にもわかります」

「……?  なっ、なんで?  そんな、あっさり……」


 五月の言葉が予想外なものだったのか、一花は虚を突かれたような反応を見せる。今まで決して妹たちに見せなかった表情を披露したあたり、一花の本気の想いなのは五月に伝わっている。だからこそ、受け止めたい。


「そんなの、当然です。私は一花が大好きですから」

「えっ……」

「そして、上杉君のことも信頼しています。確かにかつては警戒していましたが……今は違います。彼は、私たち全員に誠実に向き合ってくれる男の子だと信じています。だから」


 一呼吸つき、笑顔で告げる。母として、妹として長女を想う五月の本心だ。


「私は、あなたたちを応援しますよ。絶対に、何があっても、私は一花と上杉君の味方です」

「……!」

「私も、自分の夢のために彼が必要なんです。だから私の一存であなたたちの関係を暴露して、家庭教師が解消になるのは困るのです。これでも私、ふたりにはとっても感謝しているんですよ?」

「五月、ちゃん……」


   戸惑いを隠せない一花の表情、その声色。風太郎との関係を認めてもらえるとは思っていなかったことの証明である。やはり、信頼などされていなかったのだ。一花への言葉こそ優しい五月ではあるが、心では今までの自分の考えの甘さに悔しさでいっぱいだった。


(本当に、私は何も、一花のことを知らないで……!)


 彼女にずっと姉という枷をかけさせていたという事実が、苦しい。妹たちを気遣って自分の本心や悩みを相談しないというのは、結局心を許せていないのと変わらない。人生に関わる女優の活動ですら事後報告なのも、自分たちが一花に頼りきりだったということがあったからだろうと、五月は考えている。

 そんな一花が、五月たち五つ子ではなく、長女としての役割関係なしに心に寄り添える風太郎を必要とし、求めるのは至極当然といえよう。


(こんなことにも、気づかないだなんて……これでは、母親として失格ですね)


 でも、これからは違う。一花の様子を見る限り、風太郎によって姉という鎖はすでに緩められている。先程の威圧は、今までの自分を棄ててでも風太郎を求めていることを意味しているのだから。

 ならば、もう一花の心に歩み寄ることに遠慮はしない。一花を大切に思っているのは風太郎だけではなく、五月も同じなのだ。

 ゆえに五月は願う。一花も、自分の気持ちを遠慮なくぶつけてほしいと。


「上杉君と一花、長男と、長女……きっと、二人にしか通じないものが、あったのでしょうね。すごく、お似合いだと思いますよ」

「っ……ありがとう。すっごく、嬉しい。ホント、私より五月ちゃん、よっぽど大人だよ。お姉さん失格の私なんかとは、全然違う」


   思うことがあるのか、未だ一花の表情は明るくない。それでも、五月の純粋な想いは通じたようだ。感謝の言葉と共に、一花も真剣な眼差しを五月に向ける。


「……なら、私も五月ちゃんと向き合わないとだよね。応援するって発言、撤回していいから。何があっても、私の意思は変わらない」


 無言で頷き、一花の瞳を見つめる。どんな内容であろうと、姉としてではない、中野一花というひとりの少女としての言葉を、五月は全て受け止める覚悟だ。


「私、フータロー君が好き。はっきり言って、みんなより大切。たとえみんなに……フータロー君に嫌われたとしても、私は誰よりもフータロー君の幸せを願う。もう私は、五月ちゃんたちのお姉さんではいられない」


 そこにはもう、五月の知る妹を気遣う優しい長女の姿はなく。


「誰が敵になろうと、こんな自分勝手な私を好きになってくれたフータロー君は、絶対に譲らない。何があっても、私はフータロー君を愛し続ける。だって、フータロー君はありのままの私を受け止めてくれた、たったひとりの男の子だから」


 ただの女としての、一方的な決別である。しかしそれを受けた五月は気分を害することはなく、一花が本心を話してくれたという事実に嬉しさを感じていた。

 今まで姉であり続けてわがままを言わなかったからこそ、しっかりと伝わっているのだ。そこには一花の風太郎へのありったけの愛が篭っている、本気の恋なのだと。ゆえに、五月の気持ちは変わることはない。


「彼は、言っていました。私たち全員、揃って笑顔で卒業させると。私も、気持ちは同じです。心からそれを望んでいます」


 穏やかな表情のまま五月は両手で一花の手を包み込み、告げる。ずっと姉であり続けてくれた彼女への卒業を。


「だから、私にも協力させてください。上杉君は私にとっても信頼できる教師で、大切な友達なのですから。全員笑顔で卒業するために、あなたたちの幸せのために。乗り越えなければならない壁は、まだまだ多いでしょう?」

「!  ……ホント?  ホントに、いいの?」

「もちろんです。課題は山積みですが……私と一花と上杉君が力を合わせれば、きっと大丈夫です!  みんなが笑顔で卒業できる私たちの、あなたのハッピーエンド。頑張って一緒に目指しましょう!」

「五月、ちゃん……!  っ、また、私は……!  ……ごめん、ごめんね……ありがとう……!」


 涙を流し嗚咽を漏らす一花を見て、ようやく同じ土俵に立てたのだなと、五月は思う。そして、一花を姉としての呪縛から解き放った風太郎は、やはり自分たちに必要な存在だと確信できた。

 二乃や三玖の恋心、四葉の過去。全てを清算するのはとても困難だろう。上手くいくかもわからない。それでも、風太郎と一花となら、きっとできる。二人の新たな旅立ちを祝いたいという祈りが、五月を前向きにさせている。


(上杉君、本当にありがとうございます。……どうか、一花を、よろしくお願いします)


 今こそ、感謝を込めたスタンプをあなたに。

 

 

 

 

「お兄ちゃん、昨日一花さんと何してたの?」

「は? 別になんもねー……ちょっと待て。なんで知ってんだ、お前」

「一花さんの声が聞こえたから、お取り込み中かなーって。ナイス判断でしょ」

「昨日からなんかやけにニヤニヤしてると思ったら、バレてたのかよ……放置することになって、悪かったな。プレゼントあるから、後で見てくれ」

「ホント!?  ありがとう!  それにしても、お兄ちゃんにもようやく春が訪れたみたいで、私は嬉しいよ!」


   中学生になったらいはは、風太郎から見て少し茶目っ気が増したように思う。それでも上杉家においては母親代わりの、ただいてくれるだけで風太郎の心を癒すとても大切な妹だ。そんならいはは、昨日は家の前まで帰ってきていたにもかかわらず風太郎に気を遣い、一花と二人きりの時間を過ごさせてくれていたようだ。


「だけどお前、絶対にあいつらに一花のこと言うなよ。バイトクビになりかねないからな」

「りょーかいです。そしたらお腹いっぱい食べれなくなっちゃうもんね」

「そういうことだ。まぁそんなわけで彼女ができたわけだが、妬くんじゃねぇぞ」

「はぁ、一花さん……お気の毒に」

「……さすがにその反応は傷つくぞ……」

「まあいいじゃねーか!  頑固なお前に、晴れて彼女ができたんだ。五月ちゃんじゃないとは驚いたが、一花ちゃんだっけか?  旅行で少し見た程度だったが、可愛い子だったな!」


 堅物魔神の風太郎に彼女ができたということで、上杉家の食卓は盛り上がっていた。しかし二人のテンションに反して風太郎の気分は控えめである。一花が彼女になったことによるこれからの日常の変化に対する好奇心と、それゆえに生じるであろう懸念が交差しているのだ。学校では自分たちの関係は秘密ということもあって昨日のような時間を過ごすことは難しいだろうが、それでも意識せずにはいられない。

 家庭教師の仕事中は私情を挟むこと、つまり贔屓は許されない。たとえ生徒の中に風太郎が愛する彼女が紛れ込んでいようと、全員公平だ。しかし、それが終われば話は別である。風太郎は今後プライベートでも、一花の国語の個人レッスンの予定を企てている。苦手な科目の成績を伸ばしたいという一花の前向きな姿勢は、勉強を習わしとしてきた風太郎としては嬉しい限りである。だが、無視できない問題がひとつ。


(誰にもバレず、二人きりになれる安全な場所……やっぱ、ウチくらいしか、ないよな……)


 姉妹に関係を見抜かれないようにするとなると、やはり都合の良い場所は我が家しか思い浮かばない。外は危険がいっぱいなのだ。姉妹と遭遇したら修羅場一直線である。

 家で普通に国語の勉強をするだけなら問題は何もない。だが、未遂に終わったとはいえど昨日の一花の誘惑は風太郎の脳裏にしっかりと焼き付いている。さらに、それだけではない。あろうことか、去ろうとする一花に風太郎自ら誘いをかけてしまったのだ。

 男として頼りきりは嫌だと思い飛び出したのまではいい。だが、彼女が望んでいるであろうと思って発した言葉は、結果的に失言と化した。風太郎の頭から離れることはない。


(ぜ、絶対勉強どころじゃねぇ……!)


 一花の妖艶な笑み。柔らかい唇。豊満な胸の感触。誘うような言動。昨日の出来事は風太郎の幻想ではなく、まごうことなき現実である。自分とまぐわうなかで披露するであろう彼女の痴態を風太郎は想像してしまい、下半身に熱が篭りかける。これでは授業が問答無用で保健体育に変更になってしまう。いずれくるであろう、初体験。男としてはカッコ悪い姿を見せないために予習(意味深)をしておくべきなのか風太郎が悩み始めていたところ、らいはの声によって思考を中断させられる。


「お兄ちゃーん?  何考えてるんですかー?」

「っ!  い、いや、なんでも……」

「もー、どうせ一花さんのことでしょ。恋をすると、人は変わるんだね」

「やっと風太郎も真人間に戻れたんだな……これぞ、青春を謳歌する普通の高校生の姿だ。らいはもよく覚えとけよ」

「自分の息子をなんだと思ってんだよ……」


   呆れつつも、風太郎は愛する彼女の言葉を思い出す。青春をエンジョイ。ただの日常会話ででてきたその言葉を一花自身は覚えていなさそうな気もするが、確かに風太郎は記憶している。


「……でも、そうだな。受験に不安はねーし、少しくらい一花と寄り道してもいいかもな」


   自然と笑みが浮かんでくる。一花と過ごす学園生活が、たまの二人だけの放課後が、楽しみでしかたない。心に優しく灯る一花への愛は、風太郎の価値観を大きく変えている。


「なん……だと……?」

「お兄ちゃんが……そんな……!」


 しかし、本人はよくても周りには惚気る風太郎は異常としか捉えられない。らいはも勇也もまるで別人の風太郎の姿に絶句するばかりであった。


風太郎……ようやく、勉強を辞めるんだな……!  俺は……俺は……!」

「みっともねぇな、何泣いてんだよ……勉強しねぇわけじゃねぇし……」

「お母さん、勉強オバケのお兄ちゃんがついに成仏しました。これで上杉家は安泰です」

「成仏ってなんだよ!  まだまだ俺はこれからの男だ!」

「こうしちゃいられねぇ!  今日はお祝いだ!」

「おー!」

「お前ら学校と仕事はどうすんだ!  とっとと支度しろ!  ったく……」


 どんちゃん騒ぎの上杉家。呆れてこそいるが、風太郎はどこか安心感を覚えていた。家族には心を開いていたつもりではあった風太郎だが、らいはも勇也も、勉強に全てを注ぐそのあり方をどこか心配に思っていた部分があったのかもしれない。


風太郎!  まだいるな!  ちょっとこっちこい!」

「あーもうなんだよ……」

「お前に渡したいものがあんだよ」


 風太郎は強引に勇也に連れられて、ガレージの中へと移動する。


「よしきたな。会社の同期から、もう新しいの買ったから使わないってことで、譲ってもらったんだよ。新品じゃなくて悪いが、ちゃんと動くことは確認済みだ」


 そこには、大きな布に包まれた巨大な物体があった。形状的に、どのようなものなのか大体想像できてしまう。珍しく、年頃の少年のような、期待に満ちた表情を浮かべる風太郎。もし、これが本当にあれならば、一花と───


「お、親父、これって……」

「ああ、お前の想像通りだ。風太郎、遅くなったが誕生日おめでとう。いつも頑張ってるお前に感謝の気持ちを込めて、今年は俺から、とっておきだ!」

「───!!」

 

 

 

 

 父親からのプレゼントを受け取った風太郎は逸る気持ちを抑えられず、急いで支度を終えて家を後にする。いつものあの場所に、おそらく彼女は現れるだろう。まだ登校時間に余裕はあるが、今日はこちらが待ち伏せして驚かせてやろうと、風太郎は企んでいた。喫茶店で昨日一花にご馳走になったフラペチーノでも堪能しながら気長に一花を待とうと思っていたのだが、そんな少年の目論見は到着と同時にあっさり崩れ去る。


「あ、フータロー君だー……おっはー……」


 風太郎と一花にとってもはやお馴染みの場所と化している、通学路途中の喫茶店前。昨日より30分以上早く到着したというのに、一花はすでに到着していた。今日も眼鏡を装着している。

 昨日と180度違う一花のテンション。あくびをしている一花は明らかに眠気全開だ。彼女が右手に持っているのは、コーヒーだろうか。うっかりこぼしてしまいそうな一花の姿に風太郎の悪戯心は静まり、一花への憂慮へと切り替わる。


「お、おう。大丈夫か……」

「う、うん。まぁ、なんとか。ただ、昨日全然眠れなくて……」

「それは全く持って大丈夫じゃねーだろ……でも、よくこんな早くこれたな」

「寝坊したら大変だもん……少しでもフータロー君と二人きりで一緒に登校したかったし、いてもたってもいられなくって早出しちゃった。カフェインさえあれば、なんとか……」

「気持ちは嬉しいが、無理すんなよ……?」


   ぼんやりしながらもコーヒーを口にする一花。しかしすぐに眠気が吹き飛ぶわけはない。学校も近いためにこのペースでも遅刻の心配はないのだが、足取りのおぼつかない一花の様子は気がかりだ。言葉のキャッチボールでなんとか一花の意識を覚醒させようと風太郎は考え、一花に話しかける。


「にしても、なんだってそんな眠気マックスなんだよ。お前が寝不足だなんて……」

「……そんなの決まってるじゃん。フータロー君のこと考えてたの」

「ま、またお前は……」

「だって、フータロー君、あんなこと言うから……」


 上目遣いで風太郎を見上げる一花は、頬を赤く染め膨らませている。可愛らしくもあるが何か言いたげなその表情。風太郎の心拍数は乱れつつある。あんなこと、というのは間違いなく一花の去り際に囁いたあの発言だろう。やはり、一花も期待しているのだ。


「もー、ホント大変だったんだよ。今の家が嫌なわけじゃないけど、昨日ほど自分の部屋がないことを苦しんだ時間はないよ」

「は?  部屋の有無になんの関係があるんだよ」

「……わからない?」


   立ち止まった一花は眼鏡を外し、懇願するような表情を風太郎に向ける。それを受けた風太郎の緊張は爆発寸前だ。動揺する風太郎を尻目に、一花は風太郎の耳元で───


「……みんなが寝静まった部屋の中、ひとり眠れない私は、フータロー君と過ごしたあの時間を思い出すの。私の脳から切っても切り離せない、フータロー君の眼差し。優しい声。そして私とは違う、大きな手。大好きな人が私の胸に触れてくれたんだって事実を思い返すだけで、私のカラダは熱くなって、もうどうしようもなくなっちゃって。我慢できずに私は、服を脱い───」

「わかったわかった俺が悪かった!  心臓に悪すぎるからやめてくれ!」


 丁寧に、詳細に、具体的に。甘い声で自らの性事情を直球で口にする一花。昨日とは破壊力が段違いのそのボールを、風太郎が受け止められるわけもない。


「えー……まだまだ、これからが本番なのに……」

「まだ朝なんだぞ!  お前は恥ずかしくねぇのかよ!」

「こんなこと言うのもあんな姿を見せるのも、この世界でフータロー君だけだからなんの問題もないもん」

「うっ……」


 時間帯にそぐわない過激すぎる発言をしているというのに、一花に動揺は見られない。対して風太郎は恥ずかしさで顔を真っ赤にしている。いくら心を通わせても、保健体育は専門外の風太郎にはR-18トークは致命傷だ。


(くそっ、こいつめ……!  だけど……)


 それでも、風太郎の心は羞恥のみで埋め尽くされているわけではない。胸の鼓動が収まらない。心を翻弄されつつも、一花の大胆な言葉に宿る強い愛は、真実なことがわかっているからだ。だが、まだ一花のターンは終了していない。


「一人暮らし、始めよっかな……ベッドも置けるし、これならフータロー君と……」

「な、何言ってんだ、お前は片付け苦手だろ。一人暮らしなんて始めたらゴミ屋敷待ったなしだ。認めんぞ」

「うー……ならフータロー君、一緒に住もうよ。そうすれば全部解決じゃん」

「……せめて卒業してからにしてくれ……」

「えっ、ホント?  それならいいの?」


 一花は瞳孔を見開いて風太郎を見つめる。もう絶対に撤回は認めないという、強い意思の篭る一花の眼差し。風太郎は頬を掻きつつも、恥ずかしさを振り払い彼女の言葉に同意する。現実的かどうかはともかく、一花の提案に少なからず風太郎は憧れを感じているのだ。


「ま、まぁ選択肢のひとつとして可能性はあるってだけだ。過度な期待はすんなよ」

「……!  やる気出てきた。昨日サボった分、今日は勉強頑張るぞー!」

「話聞いてんのかよ……単純なヤツめ……」


   先程までの不調が嘘のようなご機嫌の一花。そんな彼女に呆れつつも、笑顔の一花に風太郎の気分も上々である。学校ではなかなか作れないであろうこの二人きりの時間に、風太郎は胸を弾ませている。勢いというものは大事である。初体験どうこうはさておき、今こそ勇気を振り絞る時だ。


「い、一花。その、聞きたいことがあるんだが」

「なになに?  どうしたの?」

「えっとだな……あれだ、いきなりで申し訳ないが……今日の放課後、空いてないか?」


 緊張による動揺が声に漏れてしまう風太郎。昨日自分に誘いをかけてきた一花は表面上は普段と変わらなかったが、実際に誘う立場になって風太郎は理解することができた。

 断られることに、少なからず恐怖を覚える。だが───


「んー?  今日もオフだけど……って、まさか、フータロー君……ひょっとしてそれは、デートのお誘いですか……!?」

「……そう解釈してもらって構わない。ちょっと、見せたいものがあるんだ。それで、お前としたいことがある」

「えっ、なにそれ気になるっ!」


   喜びに加え興味津々、といった一花の笑顔が風太郎の目の前に広がる。ウキウキ度満点のその表情に、風太郎は勇気をもらう。


「お前が喜ぶかはわからないが……いや、きっといい思い出になるはずだ。大丈夫か?」

「もっちろん!  お仕事被ってない限り、私がフータロー君のお誘いを断るなんてありえないから。どこで待ち合わせする?この付近だと危険だよね」

「あいつらに見つかる可能性が低いところ……昨日の公園の、駅前とかがいいか。ちょっと準備に時間かかるから、終わり次第連絡するわ」

「おっけー!  なら、それに合わせて向かえば問題ないね。だいたい着く時間目処ついたら、電話なりなんなりしてねっ♡」

「あいよ。……楽しみに、しててくれ」


 無事に約束を取り付けることに成功した風太郎。しかし、一花から全幅の信頼とありったけの好意を向けられているとわかっていても、未だに風太郎の心から緊張は解けない。未経験の行いに挑戦するということは、自分の不安と対峙することを意味するのだ。平常心でいられないのは当然といえる。


(昨日だってやったんだ。今更、これくらい……!)


 だが、勝るのは己の欲であった。風太郎は一花の手を握り、指を絡ませる。男の手とは違う柔らかい一花の手の感触が、今日もまた風太郎の手に伝わる。


「フータロー君……!  嬉しいっ!」


 積極的な風太郎に、満面の笑みで答える一花。彼女の笑顔を受けて、風太郎の心はドキドキで満たされて、暖かくなる。


「……まだ早いし、誰も見てないだろ。ゆっくり、行こうぜ」

「うん!  大好きっ、フータロー君♡」


 リア充であろうと誰もが呪詛を紡ぎたくなるような、相思相愛の二人。愛は、人を大きく変えるという証明である。

 

 

 

 

(やっと、二度目のお昼寝タイムだ……長かった……)


 昼休み。多くの学生にとって至福の時となるこの時間を、例に漏れず一花も望んでいた。学校に到着してから朝のホームルームまでは睡眠に時間を費やすことができたのだが、授業の合間の休み時間はそうはいかなかった。昨日の欠席を心配したクラスメイトが男女問わずに話しかけてきて、周りに人が絶えない状況が続いていたのだ。特に男子はノートをとっておいたから頼ってほしいという声が跡を立たず、姫扱いを受けていた。

 生憎他の姉妹がノートをとっておいてくれたおかげで、男子のご厚意に甘える必要はなかった。溢れていた人の波もようやくランチタイムのこの時間には落ち着き、念願の睡眠時間を稼ぐ機会が到来したわけである。しかし、いざ寝ようと机に伏せて目を瞑るも、一花の脳内は風太郎で埋め尽くされていた。


(フータロー君と、デートかぁ……しかも、向こうから誘ってくれるなんて……♪  二人きりの時間、嬉しいな……)


 一花が机から動けないこの時間も二乃や三玖が積極的に風太郎に声をかけてはいたが、もはやその程度では一花は嫉妬の炎を燃やしたりはしない。学校では二人きりの時間を作れなくとも、一花は風太郎と恋人なのだ。何があっても揺るがないその事実に、一花はちょっぴり優越感を感じてしまう。そして自己嫌悪するまでがワンセットだ。


(……余裕が出来たらすぐこれだよ。まだ決着がついたわけじゃないんだから、浮かれてちゃダメなのに……でも、フータロー君とのデート、楽しみすぎるよ……)


 断じて子供のようにマウントを取りたいわけではない。一花にとって風太郎は大切な恩人であり恋人であって、決して力を誇示するための道具ではないのだ。頭ではそれを理解していても、風太郎に尽くしたいという愛だけではなく、自分も風太郎の愛で満たされたいという欲が一花の中で渦巻いている。

 昨日の一日で、一花の目指す方向性は完全に定まった。姉であることをやめて妹たちより自分の幸せを優先する以上、目指すのは100点満点だ。ひとりでは叶うことのない野望だが、もうひとりではない。

 愛する彼氏の掲げる目標のために。自分たちを応援すると言ってくれた末っ子のために。妹たちを心から納得させて、全員揃って笑顔で卒業。絶対に、成し遂げなければならない。しかし───


(うう、今日だけ、今日だけは許して……!  だって、フータロー君とのデートが、最高の時間が、私を待ってるんだから!)


 所詮はまだまだ恋に仕事に青春真っ盛りな女子高生。大好きな風太郎と過ごす時間は一花にとって極上の癒しなのだ。大人なように見えて、実は欲には忠実なのが中野一花という少女なのである。


「一花、ご飯いらないの?  私たち学食行くけど……」

「私眠たいからパス……昼休み終わったら起こして……あと、パン適当に五つくらい買っておいてほしい……」

「おぉ、結構食べるね……オッケー。ゆっくり休んでね?」

「ごめん……お金後で渡すから……ありがと……」


 しかし、デートにかまけて大事なことを見失ってはいけない。愛する風太郎の教えを無駄にしないためにも、授業中に眠るなどという失態は絶対に許されない。気にかけてくれた四葉に謝罪と依頼をしつつ、午後からの授業に備えて一花は夢の世界へと旅立つことにした。

 

 

 

 

 


(やっと終わったー……頑張ったよー……)


 睡眠時間を少しでも稼いだことが功を奏したのか、なんとか一度も眠ることなく、午後の授業を一花は無事に乗り切ることができた。人間は心の持ちよう次第でいくらでも集中できる生き物だということを、一花は再確認できた。

 当然、この後に待ち構えている風太郎とのデートも一花のモチベーションを高めている要因であることは間違いない。しかし、それ以上に一花を動かしているのは、大好きな彼氏の愛に、信頼に応えたい。こんなわがままな自分を好きと言ってくれた風太郎になんとしても報いたいという、一途な想いであった。


(うん、これだけは絶対。フータロー君が、私にとっての一番だから。でも……)


 何があっても一花の優先順位は変わらない。それでも、一花は後ろめたさを完全に拭えていない。風太郎が我慢しなくていいと言ってくれたことはたまらなく嬉しいのだが、自分がありのままのわがまま少女でいると、風太郎の目標の妨げになってしまうのではないかという不安を一花は抱えている。昨日も五月に圧をかけて、自分の都合を強制させようとしたのだ。五月は暖かく包み込んでくれたが、その優しさは一花の心に響いた。今更性格の悪さなど振り返るまでもない。


(二乃や三玖、そして四葉……みんなは今のお姉さんじゃない私を、認めてくれるのかな)


 他の姉妹は五月のようにはいかないことは容易に想像できる。かなりの苦戦を強いられるだろう。

 そうして対策を考え込んでいる間にもホームルームが終わり待ち望んでいた放課後が到来したのだが、一花の心のモヤモヤは晴れていない。結局良いアイデアは浮かばなかったのだ。だが、風太郎とのデートで沈んだ表情を浮かべていては心配をかけさせてしまう。


(こんなんじゃダメ……今日は今日で、楽しまないと!)

 

   一花は気持ちを切り替えて、気持ちを強く保つ。気を緩めてはいけない。まずは妹たちにバレないように、風太郎と合流しなければならないのだ。

 風太郎自身病み上がり(という設定)のため、本日も放課後の勉強会は中止ということになった。事情を知っている五月が口裏を合わせてくれたこともあり、スムーズに事は運んだ。彼女にはいずれとびっきり美味しいデザートをご馳走することを心に誓いつつ、一花は妹たちと共に下校することにした。妹たちの動向を伺ってから外出を試みれば、リスクは少ないという判断からだ。

 幸いにも今日は一花は非番である。アルバイトなり買い出しなりに向かう妹たちを一花は見送り、家に到着する。そして、後は着替えて外出するだけ、というとこまできた。しかし、ここで一花は抱えている懸念が吹き飛んでしまうほどの、厄介な難題に直面してしまう。

 

 

 


(服……どれにしよう……!)

 

 

 


 即ち───己との、戦い。


 これはいけない。下手すると解答を見つけ出すのに丸一日かかってしまう。なんていったって恋人になってからの初デートなのだ。一生モノの記念日になることは間違いないのだから、当然一花は気合を入れて臨むつもりである。つまり。


(うう、少し汗かいちゃったからシャワーも浴びたい、服もじっくり厳選したい……どうしようどうしよう、時間ないよー!)


 次から次へと、準備したいことが湧き出てしまう。昨日のデートも非常に有意義な時間であったのだが、今日は今日で大事な勝負所だ。一花は昨日去り際に風太郎が囁いた一言を思い出す。おそらく、今日のデートの締めは───


(フータロー君と、エッチするかもしれないんだから……!)


   そう、初体験である。彼氏のあんな発言があった以上、一花は風太郎と交わることを期待している。実際にヤるかどうかはともかく、いざヤる場合になった時にヤる気のない格好で風太郎のヤる気を削ぐわけにはいかないのだ。


(失敗したなぁ……下着もフータロー君が選んでくれたの、今日洗濯しちゃってるし……全然決まらないんだけどー!)


 現在時刻は17時。風太郎も準備があるとはいえど、家には到着しているであろう時間だ。一花としても風太郎を待たせてしまうことは避けたいのだが、妥協もしたくはない。

 そんな焦りから思考をまとめられずに一花の頭がパニックを起こしそうになったところ、彼女のスマートフォンの振動が響く。確認してみたところメールを受信したようで、発信主は風太郎のようだ。すかさず一花が内容をチェックすると、その内容は───


『すまん、かなり遅くなりそうだ。少なくともあと1時間はかかっちまうかもしれない』


 愛しき彼氏による、シンキングタイム延長許可証であった。救いの神は、一花のスマートフォン越しに存在したのだ。


「ナイス!  ナイスすぎるよフータロー君!」


   これほどありがたい話もない。家に自分以外誰もいないこともあって、思わず独り言が出てしまうほどに舞い上がる一花。即座に風太郎からのメールを保護し、返信をする。基本的に五つ子へのメールは一斉送信なため、個人に送られるメールは一花にとってとても貴重なものなのだ。


『全然気にしないで、大丈夫だよ!  焦らないで、ゆっくりでいいからねっ♡』


 尋常ではないフリック速度で感謝と愛を込めたメールを返信しつつ、一花は仕切り直す。とりあえず、身も心もリフレッシュするのが最優先だ。


「駅へ向かう時間、電車乗ってる時間を考えると30分はあるかな。よーし、とりあえず軽くでもシャワー浴びてスッキリしよっと」


 愛する風太郎に、もっともっと愛されたい。完璧な自分で、愛を囁いてもらいたい。そして、愛してもらえた分、愛をあげたい。尽くしたい。暴走しがちな乙女心をなんとか制御しつつ、一花は風呂場へと向かう。

 すべては、風太郎に喜んでもらうために。

 

 

 

 

 


「あー、さっぱりしたー。時間は……あ、またフータロー君からメール来てる」


   シャワーから上がった一花は時間を確認するためにスマートフォンを開く。すると、またしても風太郎からのメールを受信していたことに気づき、内容を確認する。


『悪い、可能ならスキニーパンツで来てもらえるか?あと鞄はショルダーのやつで頼む』

「!?」


 その内容はあまりにも予想外な、風太郎のファッションリクエスト。内容に衝撃を受けた一花はしばし瞬きすらできなかったが、しばらくすると笑みを浮かべ、当然の結論に行き着く。


「ふーん……フータロー君、こういうのが好きなんだー……ふふっ♡」


 トキメキとドキドキが交差する。風太郎の好みを把握できた一花の気分は最高にハイだ。いつだって一花は、風太郎に魅力的と思ってもらえる女でいたいのである。


『りょーかい!  楽しみにしててね♡』


 好きを伝えたくて、毎回ハートマークをつけてしまう。こんなに乱発すると効果が薄れないだろうかと思いつつも、一花の愛は止まらない。都合の悪いことはひとまず放置して、着々と身支度を調える。


(今日もたーっぷり、ドキドキさせてあげちゃうんだから!  待っててね、フータロー君!)