スタイルチェンジ #6

 

「……え……?  今、なんて……」


   何を言っているのか理解できない、というような表情の一花。だが、理解できないのは風太郎も同じだ。どうしてそこまで自分を否定して、本心を隠そうとするのか。


「なんだよ、聞こえなかったのかよ。俺は一花が好きだから、今日の一花と過ごした時間をなかったことにするのは嫌だって言ってんだ。勝手に決めてんじゃねぇよ」


   確かに、一花の振る舞いは善か悪かで言えば間違いなく悪だ。三玖の気持ちを知っておきながら、三玖に扮して自分の欲のために都合の良い発言をした彼女の行動は、誰がどう見ても卑怯と感じるものであろう。

   しかし、別の姉妹を装って自分の欲を押し通そうとしたのは、一花だけではない。

 

 

 


『この関係に終止符を打ちましょう』

 

 

 


   思い出すのは春休みの家族旅行での特殊な状況を利用し、五月の姿で風太郎を拒絶しようとした三玖の言葉。彼女が何を目的としてそれを口にしたのか、今の風太郎にはわかる。三玖の風太郎への思いは、それほど本気ということなのだろう。

   だが、五月以外の他の姉妹は、自分の知らないところで三玖が姉妹全員を巻き込んで風太郎との関係をリセットさせようとしていたことを知っていたのだろうか。また、知っていたとして、三玖の考えに同意したのだろうか。そんなの、するわけがない。


(そうだ。そんなこと、あるはずがないんだよ。だって、あいつらは。そして、一花は───)


   なぜなら彼女たちは、家庭教師を辞めようとした風太郎を家出をしてまででも引き止めてくれたのだから。五つ子全員が風太郎の生徒である以上、風太郎が教師を辞めるということは三玖以外の姉妹全員とも教師と生徒の関係を解消するということになる。つまり、学校以外での五つ子と風太郎のつながりはなくなる。

   三玖としてはそれでいいのかもしれない。しかし、それでは家を手放してまで風太郎に教えを求めた他の姉妹の覚悟は。ずっと風太郎を必要としていた少女の想いは。自分のためだけでなくみんなのために、勉強も仕事も必死に頑張っていた一花の努力はどうなるのか。


(あいつの頑張りが全部水の泡と化すだなんて、そんなの、あんまりだろうがよ……)


   家庭教師を解消させられるかもしれないという焦りで余裕がなかったとはいえど、当時の自分の考えの浅はかさに風太郎は歯噛みする。あの時の家族旅行での偽五月の正体は、消去法で一花か三玖まで絞り込むことができた。しかし、一花の愛を知った今だからわかることではあるが、絶対的な確信が風太郎にはある。


(適当なこと言いやがって、何が仕事が忙しくなったから家庭教師解消だ。一花は学年末試験の頃から、ひとりだけずっと仕事と勉強の両立をしていて、結果を残していたじゃねぇか。それに、あいつは、俺を……!)


   ずっと風太郎を気にかけて、家出の決意までしてくれた一花が。一人でずっと、戦い続けていた彼女が。自分の弱さに負けて風太郎を拒絶するだなんてことは、天地がひっくり返ってもありえない。もし仮に風太郎があのまま三玖を見抜くことができずに関係が解消になってしまったとしたら、一花は当然のこと、他の姉妹も強いショックを受けてしまうだろう。姉妹の想いを無下にしようとした三玖の振る舞いを咎めていないのに一花の行動は許さないだなんて、そんな理不尽な話はない。


(だけど、三玖だって本当は自分が間違ってることくらいわかってるはずだ。だって、あいつも一花に感謝していたんだから)


   それでも、風太郎に三玖を責めるつもりはない。彼女は五つ子の中でも比較的初期から風太郎に協力的で、積極的に勉強に取り組み、学年末試験の際には早くから勉強を教える側に入り、風太郎を支えてくれたのだ。五つ子全員の赤点回避という偉業に、三玖が大きく貢献していたことは紛れも無い事実である。

   そんな心の優しい三玖があそこまで思い切った行動に出たのは、自分の望みを叶えるためにどうしても必要なことだったのだろう。彼女もまた、そのことで悩んでいたというわけだ。そんな三玖の助けに、なってあげることができなかった。距離を置こうと判断して三玖に親身に接してあげられなかった風太郎にも全く問題がないとは言えない。


(ったく、これじゃ俺も教師……いや、友達としてまだまだだな)


   五つ子は一人を除いて、風太郎にとって大切な友達なのだ。ゆえに、二人の行動やその動機に驚きこそあれど、風太郎の中で彼女たちの評価が悪くなる理由は全くなかった。

   結論が出たことで、風太郎は意識を切り替える。ただひとり、五つ子の中で特別な一花。彼女を愛する者として、大切な一花の罪の意識を取り除かなければならない。


「な、なんで?  フータロー君……私、君を騙してたんだよ?  反対だなんて、そんな……」

「何言ってんだよ、俺だってお前たちに嘘をついたことがある。だからただのおあいこだ」

「全然おあいこなんかじゃないよ!  私の方が三玖や四葉を利用している分、よっぽど最低なのに……」

「そんなの関係ねーよ。別に三玖は知るよしもないんだし問題ないだろ。結果的に誰も傷ついてないわけだし、そんな気に病むなよ」

「どうして……フータロー君、裏切られたとか、思ってないの?」

「っ……なんでだよ。確かに何も感じないわけじゃねぇけど、たった一度の過ちでそんな理不尽なこと、あるわけねぇだろ」


   風太郎が一花に怒りを覚えることが当然だ、というような一花の疑問。愛をくれる一花ですら、風太郎に対して偏見を抱いているという事実。それは、風太郎の心に刺さる。今までの自分の態度に問題があったのは理解しているが、それでも悲しさを覚えてしまう。


「所詮俺だってお前と同じだ。何度も間違えたり、自分のためだけに嘘だってついた。一花を責める資格はないし、責めようとも思わん」


   そもそも、目的のためなら手段を選ばないというのは、家庭教師を始めたての頃の風太郎にも当てはまるスタンスである。家の借金返済という目標のために。らいはにお腹いっぱい、美味しいご飯を食べさせてあげるために。そのためならば利用できるものは全て利用するという決意のもと、中野家の五つ子の家庭教師を始めたのだ。

   当然その中で、風太郎も嘘をつくことがあった。二乃や三玖、五月に授業を受けさせるためだけに三玖の趣味を否定しなかったり、仮病を使ったりもした。人の道を外れるようなことこそしなくても、自分を正当化し目的の達成のために嘘をつくことに躊躇いはなかった。

   他にも、勤労感謝の日には一花や三玖の誘いを断っておきながら四葉と出かけたこともある。結果的に誘ってきた二人に嘘をつく形になってしまった。もし二人がこのことを知ったら、一花も三玖もいい気分ではないだろう。結局、風太郎も嘘つきであることに変わりはない。


「それにお前、昔の自分がどうとか言ってたけど……別に、ガキのころなんざやんちゃしてて当たり前だろ。俺なんて小6にはもうピアスあけてたんだぞ」

「ぁ……」

「トランプの罰ゲームで友達にトラウマを植え付けるようなやべーことだってしたし、本気で人生に勉強なんて必要ねぇって思ってたしな。昔の俺は問題児以外の何者でもなかった」


   黒歴史というわけではなくとも、積極的に話そうとは思わないかつての自分。それでも風太郎は自分の過去をさらけ出す。一花の罪悪感を取り除くためなら、できる限りのことをしてあげたい。


「…………そ、そこまで?」

「そうだ。まぁ……確かにお前のやり方は褒められたものじゃない。だけど、少なくとも旅行の時からずっと、一花も悩んでたんだろ。いくら俺でもお前の様子が変だってことは気づいてた。悩みの検討がつかなかった上に三玖が誤魔化したから、てっきり解決したのかと納得しちまってたが……」

「……なんの話?  そういえば前も変装がどうとか言ってたけど、旅行で三玖となんかあったの?」

「……まぁ、ちょっとな。とにかく……お前の一連の行動は、今まで我慢してた分、ブレーキが外れたってことなんだろ。お前も、大変だったんだよな。今までよく頑張ったよ」


   ずっと風太郎の存在を必要とし求めていたのに、一花は妹のために自分の気持ちを抑圧していた。それでもなお、時を重ねるにつれ膨れ上がる想い。そうして募りに募った想いが溢れ出て暴走した結果、卑怯な手段を用いてでも戦うことを一花は選択したのだろう。

   だが、一花は考えを改めた。風太郎には何がトリガーになったのかはわからないが、一花は勇気を振り絞り、自分の姿で、言葉で戦うことを選んだのだ。そして、その想いの強さはしかと風太郎に伝わっている。彼女の今日一日のアプローチとここで告白した嘘が、何よりの証明である。一花には嘘を話さないという選択肢もあったはずなのに、それでも玉砕覚悟で己の全てを打ち明けたのだ。風太郎と、本気で向き合うために。


(これは一花の真剣な気持ちなんだってこと、俺にだってわかるさ。だから───)


   風太郎は知っている。成功は失敗の先にあるのだと。一花も自分の失敗から学んだからこそ、今日という充実した一日を共に過ごすことができたのだ。

   そんな一花の精一杯の勇気を、拒絶するだなんてありえない。


「あのな、一花。俺にとって妹、らいははとても大切で、あいつの願いは全て叶えてやりたいと思っている。だが、そんなのは俺の事情だ。全ての長男長女が俺みたいに考えてるわけじゃねぇんだし、一方的に俺の価値観を押し付けようとは思わん。一花は一花のままでいい」

「…………」

「だから、お前が長女だからって、妹のために自分の気持ちを押し殺し続ける必要なんてないんだ。無論善悪の判断はつけるべきだが、五つ子なのに一花一人だけずっと我慢するだなんて、そんなのは公平じゃないだろ」

「……フータロー君……」

「つーわけで、もうこの話は終わりにしていいと思うぞ。俺も強くは言えないけど、あいつらだって一時の感情に任せて優先順位がわからなくなって、暴走するやつらばっかじゃねぇか。誰にもお前を責める資格はねぇんだよ」

「……だけど、私は……」


   二乃と五月の家出、四葉の明らかに無謀な勉強と部活との両立や、三玖の家庭教師解消宣言。彼女たちにも様々な葛藤があったとはいえど、当時の風太郎にとって絶対であった家庭教師のアルバイトの継続の危機に、風太郎もたくさん頭を悩ませた。贔屓じみた発言だとわかってはいるが、それらと比較したら一花の嘘はかわいい方ではないかと風太郎は考えている。

   だいたい、風太郎はもちろんのこと、引っ込み思案な三玖でさえも自分の望みがあり、それを叶えるために生きていて、あのような行動を起こしたのだ。ひとりだけそうは考えていないように思える例外が五つ子の中に存在するが、基本的に人間誰だって自分が一番大切で当然である。自分のために嘘をついたくらいで、風太郎が一花を嫌いになることはない。


「でも、やっぱ……ダメだよ。私、自分を許せない。自分の役割を忘れて自分勝手な幸せを望んで、君の信頼を裏切って……こんなお姉さん失格な私は、幸せになっちゃいけない。私なんかと一緒にいたら、性格の悪さが移っちゃうよ」


   だが、一花の表情は未だ晴れない。先程公園で遊んでいた時とは正反対の姿。自分なりにではあるが優しく、しかし嘘偽りない本心を述べた風太郎ではあるが、まだ一花の心の壁を崩すには至らないようだ。


「……そうかよ。ここまで言っても、お前はなんもわかってねぇんだな。本当に、呆れるほどに馬鹿なやつだ」

「…………あはは……そうだよ、幻滅したでしょ?だから、こんな馬鹿で最低で性格の悪い嘘つきの私じゃなくて、もっと頭の良くて優しくて性格の良い、素直な女の子と───」

「そうじゃねぇよ。いいか、一花。自分の言葉で伝えろって言ったのは他でもないお前だ。それを否定なんてさせないからな、よく聞けよ」


   俯き、徹底的に自分を否定する一花。風太郎が気にしていないと言ったところで、一花の心に掬う罪悪感は消えない。ならば、どうすれば一花に気持ちは伝わるのか。


   答えは、ただひとつである。


「俺がお前のことを、隠し事や嘘のひとつやふたつ、いや、いくらでもあろうが嫌いになることなんざありえねぇんだよ」

 

 

 


   その強固な心の壁を、突き破るまで。愛を込めた直球勝負で、一花の心に響かせてみせる。

 


   ───今度は、俺が一花に愛を与える番だ。

 


「えっ……」


   真剣な気持ちを伝えることに勇気もなにも必要ない。今の風太郎を突き動かすものはただひとつ。自分の愛を、分からず屋の少女に知らしめてやりたい。


「人間、誰にだって間違いはある。俺だって、勝手に家庭教師を辞めてお前たちを傷つけた。お前たちの気持ちを、優しさを。汲み取ることができずに、無下にしちまったのは俺も同じだ」

「な、なんでよ、フータロー君は自分の事しか考えてない私とは違う。確かにフータロー君が辞めた時みんな悲しかったけど、あくまで君は私たちの事を考えて……」

「それでもお前たちを悲しませたのは事実だ。だけど、そんな俺を……お前たちは引き止めてくれた。一花の家出の発案に、一番救われたのは間違いなく俺なんだよ。あいつらも、そんなお前の覚悟を信じてついてきてくれたんだ」


   自分のためだけでなく、妹や風太郎のことを考えての一花の提案。しかしこれもまた、風太郎を必要としていた一花の愛と勇気があってこそだ。妹を思う気持ちだけではないに違いない。


「……でも、今の私は妹たちに信頼されているようなお姉ちゃんじゃない。こんな嘘まみれの私が、フータロー君の隣にいる資格なんて……」

「だからそこがわかってねぇっつってんだよ。騙されたなんて思ってないし、そもそも俺はお前が姉だから好きになったわけじゃねぇ。それ以外にも俺は一花の魅力、そこらへんの奴らより何倍も知ってるつもりだ」

「……私の、魅力……?」

「ああ。お前が納得するまで何度でも伝えてやる」


   確かに、姉としての一花が頼もしい存在であるのは事実である。だけど、違う。本当に、一花は何もわかっていない。誰からも好かれる愛想の良さと、お日様のような明るさを持つ少女。それだけでなく自分の夢を持っている一花は、風太郎にとってとても眩しい存在なのだ。

   やたらと性格の悪さを主張している一花だが、ほぼ全ての人が自分の幸せのために生きている以上、常に聖人君子であることができる人など存在するわけがない。決して自分も余裕があるあったわけではないだろうに、それでも一花は一度も風太郎を邪険に扱うことはなかった。そんな魅力に溢れている一花が、転校してきてすぐ人気者になるのは当然といえる。


「自分で自分の目指す道を決められる芯の強さ。夢のために身を削ってまでがむしゃらに突き進むことのできる向上心の高さ。そして……出会ったころの俺みたいな冷たいやつにも嫌わずに友好的に接することのできる、人を思いやる優しい心。成熟さと優しさを兼ね揃えているところが、一花の魅力だと俺は感じている」

「……っ……」

「それだけじゃねぇ。お前は五つ子の中で、間違いなく一番の努力家だ。苦手な勉強にも一生懸命取り組んで、学年末試験では姉妹の中で一番の成績を取ってみせただろ。しかも、あいつらと違って仕事との両立をした上でだ。お前が俺の知らない所でどれだけの努力を重ねてきたのか、想像もつかない。一花、お前は本当にすげぇやつなんだよ」

「……そんな、私なんて……」


   後ろめたさからか、一花は風太郎の言葉を素直に認めない。しかし、普段から一花は自分の長所を鼻にかけたりする少女ではないことは風太郎はよく理解している。妹を思う気持ちは同じでも、他人への態度は風太郎と一花では大きく違う。

   一花の決して他者を見下さず、基本的に誰にでも優しくあれるその姿。一花は姉だから優しいのではない。人をよく見ていて気遣える優しさがあるからこそ、姉として認められているのだ。それはやんちゃしていた昔の一花にも絶対にあったものだと風太郎は確信している。今こうして五人で仲良く暮らしているという事実は、五つ子の絆が揺るがないものであることの証明だ。

   そんな中野家の五つ子と出会い、愛を与えられて、風太郎は変わることができた。


「本当に、俺はどうしようもない馬鹿だ。勉強しか取り柄がないのにそれを自慢げにして人の気持ちを考えようともしないやつを、誰が必要として、求めてくれるんだって話だ。こんな簡単なことにすら、全然気付けなかった。それなのに、お前は……」


   時間をかけて心と心を通わせることで、人は初めてお互いに理解し合え、信頼を育むことができる。一方的に自分の都合を押し付けるだけでは、絶対に成り立たないものがある。


「試験勉強が思うように進まなかった時も、あいつらとの接し方に悩んでた時も。一花、いつだってお前は俺を気遣って、助け舟を出してくれた。どうして俺にそこまでしてくれるのか、ずっとわからなかった」


 だけど、一花は。最初から、ずっと。


「でも、今の俺ならわかる。姉としての義務感だとか、友情からのお節介だとか、それだけじゃない。お前は最初からなによりもずっと、心のどこかで俺を必要な存在と思ってくれていたから、あんなにも気にかけてくれたんだ」


   変わろうとして最初から風太郎に協力的だった四葉の存在や、学力の高さ(中野家の五つ子比)を活かして負担を減らしてくれた三玖にも風太郎は感謝している。五月も風太郎を勇気付ける心強い言葉を何度も伝えてくれた。二乃も風太郎を敵視していた頃も家庭教師を継続させる一言を彼女たちの父親にかけてくれたりと、風太郎を助けてくれたのは、何も一花だけに限った話ではない。


   ならば、なぜ風太郎にとって一花だけが特別なのか。


   風太郎が思い出すのは一花と初めて出会ったあの日。同級生なのにお姉さんを気取っていて、全てを見透かしているような目を持つ少女。勉強嫌いではあっても彼女は風太郎を敵視することなく、最初から友達だと思って接してくれていた。一花に自覚はないだろうが、その瞳にはすでに少なからず風太郎への愛が篭っていたのだ。だが、その矢印は一方通行ではないと、すでに風太郎は自覚している。

   一花と出会って一月程度しか経っていないのに、花火大会のあの時、風太郎が彼女の作り笑いを見抜くことができたのは。恋だとか青春をエンジョイだとか、自分の価値感にそぐわないものは容赦なく否定していたかつての風太郎でも、一花の言葉は日常のワンシーンのものですら思い出せて、記憶に残っているそのわけは。


   きっと、風太郎も一花を、出会ったあの時からどこかで意識して、特別に感じていたからなのだ。そんな一花だからこそパートナーと認め、五つ子の中で唯一、自分から中野家の五つ子の家庭教師をする理由を打ち明けたのである。

 

「俺にはそれが、たまらなく嬉しい。俺はずっと、誰かに必要とされる人間になるために勉強してきたんだ。勉強が全てっていう考えは間違っていたけれど……それでも、そんな間違えてばかりの俺でも。お前はずっと、見放さないで俺のことを助けてくれた」

「……ダメ……」

「ありがとう、一花。ずっと俺を気にかけて、支えてくれて。こんな俺を、好きになってくれて。おかげで俺も、自分の気持ちに気づくことができた」

「やめて、優しくしないで……絶対、後悔することになる。こんな嘘つきで嫉妬深くて自分のことしか考えてない私は、フータロー君もみんなも傷つけることしかできない。だから、私は、君から離れなくちゃいけないのにっ……!」

「あぁ、お前は嘘つきだ。自分の心に嘘をついて、必死に俺の前から消えようとしている。でも、俺にはわかるんだよ」


   いくら一花が嘘で心を固めようが、風太郎にはお見通しだ。もはや大切な存在である一花の本心を汲み取ることなど造作もない。彼女の中には、絶対にゆるがない想いがある。それは───


「一花が今日、伝えてくれた溢れるほどの愛。そして、俺を好きだと思ってくれる心。これが嘘だなんて、ありえねぇ。あんなに幸せそうな笑顔の一花を見れて、俺も嬉しかったんだぜ」

「お願い、もうやめて……これ以上君の優しさに甘えたら、私……!」

「問題なんてなんもねぇよ。姉は人に甘えちゃいけないだなんて、そんなの誰が決めたんだって話だ。嘘つきだろうと、俺の一花への愛は変わらない。だから、改めて伝えさせてくれ」


   愛。

   家族旅行の時にやたらその言葉を耳にするも、あの時の風太郎にはわからなかったもの。それでも一花は、ずっと伝えてくれていた。

   一花が心の底で風太郎を求めているから手を差し伸べるのではない。他ならぬ風太郎自身が一花を愛し、求めているのだ。だから、一花の心に届くまで何度だって伝えてみせる。この気持ちは、たとえ一花であろうと否定させない。


「一花。俺もお前が大好きで、愛しているんだ。姉としてあり続けたお前を、支えたい。だから、これからもずっと、俺の隣にいてほしい」


   生徒としてでも、友達としてでもない。もはやその程度では、風太郎も満足できない。自分たちにはパートナーとしての究極系の前段階、恋人こそがふさわしいと、風太郎は自信を持って一花に告げる。


「俺には、一花が必要なんだ」


   人は、決して自分の力だけでは生きていけない。一花の愛がなければ、今の自分はなかったのだから。もはや一花の存在は、風太郎の中で大きくなりすぎている。今までずっとひとりで戦い続けてきた、強く優しくも儚い一花。そんな彼女に必要とされている自分を、誇らしく思える。


 「…………なんで」


   一花の涙が頬をつたう。ようやく、心の壁を貫くことができたようだ。一花がずっと涙を堪えていたことを、風太郎は当然見抜いていた。


「なんで……どうしてぇ……」


   顔を歪ませ、大粒の涙を零す一花。罪悪感で自分を責め続け、心はボロボロになっていたのだろう。それでも、姉としてある中で身についた我慢強さで、必死に普段通りを装っていた。


   だけど、もう。そんな強さは、なくていい。


「……あんなに、ひどい嘘、ついてたのに……君の信頼を、裏切ってたのに……私のこと……許して、くれるの……?  私……フータロー君の隣に、いてもいいの……?」

「許すも許さないもねーよ。もう俺たちは恋人同士で、お前は大切な彼女なんだ。俺がお前を信じる理由なんて、それだけで十分なんだよ」


   今にも崩れてしまいそうな一花の姿を、風太郎は強く抱きしめる。彼女の心を、その温もりを守りたい。


「俺はどこにもいかない。一花が望む限り、ずっとそばにいるから。だから、もう俺の前では我慢なんてすんな。泣きたい時は思いっきり泣け。甘えたい時は遠慮なく甘えてこい。喜びも、悲しみも。これからはずっと、俺と一花で二等分だ」

「フータロー、くん……!  っく、ううっ……うわぁあああん!!」


   涙腺が決壊し、一花は風太郎の胸の中で声を上げて泣き噦る。感情を剥き出しにしている一花を見るのは風太郎にとって初めてのことだ。


「フータローくん、フータローくんっ……!」


   母親が亡くなってから妹たちを導くために姉にならなければいけなくなって、妹たちを優先するようになった一花。一人で責任を背負いこむうちに、誰にも甘えることは許されないと感じていたのだろう。それでも一花は風太郎の前だけでは、姉でいる必要はなくなる。素直にひとりの少女として、甘えることができるのだ。


(やっぱり、俺とお前は、同じなんだな)


   そして、風太郎は気づく。自分自身、甘えたいという感情を忘れていたことに。過酷な環境でずっと勉強に明け暮れていた風太郎にとって日々を生きることは戦いであり、いつしかそんな思いは頭の中から消えていた。

   思えば公園での膝枕の時、一花は言葉にしていた。いつでも甘えてくれていい、と。ずっと風太郎を気にかけていてくれた一花は、心から風太郎の身を案じていたのだろう。


(俺も、今度、少しだけ……)


   決して走り続けて疲れたわけではない。しかし、自分を必要としてくれる一花の存在を得て、風太郎は自己実現を成し遂げることができた。無論、教師としてのゴールはまだ先であり、卒業の後も長い人生が続く。それでも、もう今までのようなハイペースを維持する必要はないのだ。重りを外したような開放感。そんな精神的に余裕のできた風太郎の心に、ある思いがこみ上げてくる。


(一花に、甘えてみたい……なんて言ったら、笑われちまうかもな。でも……)


   一花からの愛をもらわなければ、風太郎には生まれることのなかったであろう欲求。お互いに信頼し支え合い、甘えたいと思える相手ができたことを、風太郎はとても嬉しく思っている。すでに、風太郎の中で一花はらいはと同じかそれ以上に大切な存在だ。今まで風太郎は、らいはの笑顔をそのまま自身の幸せとしてきた。それが風太郎にとっての全てであり、彼女のために自分の時間を捧げることに何も抵抗はなく、苦だとも思わなかった。

   だが、そんな目に入れても痛くない妹ももう中学生なのだ。身体は弱くともしっかりしているらいはの心の強さに、少しだけ頼ってもいいのかもしれない。もともと、風太郎が自分で縛ると決めた鎖である。なら、勝手に緩めようが誰も文句は言わないだろう。


(俺も、すっかりわがままになっちまったな)


   それでも風太郎の心はとても晴れやかだ。これからの一花と共に過ごす日常に、胸を膨らませる。一生に一度の高校生活、してみたいことがたくさんある。彼女と見る景色は、きっとひとりの時とは違うはずだ。でも、今の風太郎の望みはただひとつである。

   たくさんの愛を与えてくれた一花を、甘えさせてあげたい。優しく、暖かいこの気持ち。どうかずっと、失わずにいたい。

 

 

 

 

 


   どれくらい、こうしていただろうか。すでに一花は泣き止んでいるが、まだ顔を見せてはこない。一花がこの部屋に来た直後と同じように静寂が部屋中を包み込む。しかし、お互いに緊張を感じてはいない。風太郎も一花も、愛する人が側にいることに安心感を覚えていた。


「フータロー君……」


   一花が顔を上げる。まだ顔は赤いが、涙は止まったようだ。もう、一花が教えてくれた五つ子マニュアルを引き出すまでもない。一花には自然に、なおかつ優しくが基本だ。


「……落ち着いたか?」

「うん、もう大丈夫!ありがとねっ」


   風太郎から離れ、立ち上がる一花。声も表情も明るいものに変わり、復活を印象づける。頑張った甲斐があったと、素直に風太郎は思えた。


「あのね、フータロー君」


   一花の言葉を受けて、風太郎も立ち上がり彼女と向き合う。今の自分たちは教師と生徒以前に、恋人で対等な存在なのだ。愛する彼女の真摯な想いを、全身全霊で受け止めたい。


「私、フータロー君が好き。時折見せる子供っぽい意地悪な態度も、文句を言いながらもわがままな私たちに寄り添ってくれる優しさも、全部、全部大好きなの」


   その表情は優しく、安らぎを覚える暖かいものだ。


「もう、フータロー君なしの人生なんて考えられない。私にとってフータロー君は、心が迷子になっていた私を見つけてくれた、たったひとりの王子様だから」


   だけど、言葉に秘めた愛はとても強く、どこまでも、まっすぐで。


「そんなフータロー君と、私は……未来永劫、添い遂げたいの。もう私の心も体も、私だけのものじゃない。君と一緒に、お互いに支え合いながら、生きていきたい」


   風太郎の心を貫くには、十分すぎる威力であった。今日風太郎が一花と過ごす中で理解できた、愛の形。相手から受け取るだけでなく、返したいと思う感謝の心。


「だから、これからもずっと私の隣で……私を見ていてほしい!  女優として、ひとりの女として……私、もっともっと輝いてみせる!  お願いです、私の……彼氏に、なってください!」


   答えが変わることはない。愛を知った風太郎は、普段であれば恥ずかしいはずのセリフを伝えることに躊躇いなどない。後々悶えるとわかっていても、今の風太郎は一花の前ではカッコつけたいとすら考えてしまっている。


「そんなの当然だ。さっきも言っただろ。俺はどこにも行かない。ずっとお前の隣にいるって。だから……これからもよろしくな、一花」

「……!  フータロー君っ!  こちらこそ……不束者ですが、末永く、よろしくお願いします♡」


   家に来てからは初めてである。ようやく見れた、笑顔の花。一花の心からの笑顔が、風太郎には何より嬉しい。

   悪ガキだったあの頃を思い出す。毎日が明るかったようで、どこかぽっかりと心に穴が空いていたような日々。でも、あの時とは違う。風太郎は一花に必要とされていて、風太郎も一花を必要としている。お互いを認め合い、強い絆と愛で結ばれているのだ。もう、ひとりではない。


「うう、これで私たち、正真正銘、彼氏と彼女の関係になれたんだ……!  どうしようフータロー君、私、嬉しすぎてどうしていいのかわかんないよ!  もう私たち、あんなこともこんなこともエッチなことも、なんだってできちゃうんだよね……♡」

「落ち着けって……まあ、改めて口にすると、なんだか、その……今までの日常とは変わるんだってのを実感しちまうな。テンションがよくわからなくなっているのは、俺もだわ」


   さりげなく飛んできた爆弾発言は聞こえないふりをしつつ、風太郎は一花の言葉に同意する。どうにも落ち着かない、そわそわしている感じのこの謎の胸の昂りは、どう処理してくれようか───閃いた。


「と、とりあえずっ!  もう私、容赦なんてしない!  これからはもう、二人っきりの時は思う存分甘えちゃうよ!  私がどれだけフータロー君にメロメロなのか、たっぷり思い知らせちゃうんだから!  覚悟しててよねっ♡」


   ウインクをしつつ、一花は風太郎に直球で愛を伝える。今日幾度となく、風太郎を赤面させてきた火の玉ストレートだ。だが、もう風太郎は怯まない。受け止めたボールは、しっかりと相手の目を見て投げ返す。

 しかし、ここで風太郎が一花に返すのはちょっとした変化球だ。


「おう、かかってこいよ……と言いたいところだが、今日ばかりはそうはいかねぇ。ここは俺の家だからな。デパートや公園では散々俺をドキドキさせやがって。今度は俺のターンだ」

「ふふっ、やっぱフータロー君も、意識してくれてたんだ……嬉しいっ♡」

「余裕ぶっこいてられるのは今のうちだぜ。やられっぱなしじゃ気が済まないんだよ。だから───」


   風太郎は一花に指差し、宣言する。ずっと一花のペースで振り回されてばかりでは、男が廃るというものだ。やり返したいという思いは確かにある。

   だが、それだけではない。これはまだまだ一花を甘えさせてあげたいという、風太郎のわがままでもあるのだ。


「ここでは俺のやり方で、一花には俺に甘えてもらう。拒否権なんざないからな」

「…………ふえ?」


   今さっき絶対メロメロ宣言をかました一花ではあるが、彼女がまだ完全に罪悪感を拭えているかどうかは風太郎にはわからない。今まで姉であり続けた中で染み付いた遠慮しがちな考え方は、そう簡単には変わらないだろう。自分の気持ちを押し殺して偽物の笑顔を浮かべる一花を、風太郎はもう見たくないのである。

   ならば、自分に遠慮はいらないということを、しっかりと証明しなければならない。言葉で、行動で。何事も最初が肝心だ。


「えっと……フータロー君?」

「あんだよ一花、文句は受け付けねぇぞ」

「俺のやり方で甘えてもらうってのは、つまり、その……フータロー君が私を、リードしてくれるって、こと?」

「あぁ。これでもかっていうくらい、たっぷりドキドキさせてやるよ」

「ええっ!?  嘘、でしょ……?」

  

   驚きのあまり、口元を押さえて後ずさる一花。そのリアクションは風太郎の心を刺激する。


「俺は本気だからな。今までいいようにやられた分、倍返しにして返してやる。平常心でいられるなんて思うなよ」

「そ、そんな……♡  私、強引に……フータロー君に、男らしくヤられちゃうんだ……♡」


   だが、行動とは裏腹に一花の口から発せられる声のトーンは、嬉しさと期待に満ちている。このような艶めかしい姿は、五つ子の誰にも真似できないだろう。風太郎に一花を傷つけるつもりは一切ないのに、少しばかりの嗜虐心が湧いてきてしまう。


「というわけだ。覚悟するのは俺じゃねぇ、お前だぜ、一花。もう逃がさねぇからな」

「やだ、フータロー君、こわいよぉ……♡  私、どうなっちゃうんだろ……♡」


   余裕のある笑みを浮かべ、風太郎は告げる。それでも、一花の表情に怯える様は見受けられない。それどころか、うっとりとしている一花の瞳の奥には、ハートマークが見える気さえしてしまう。彼女の反応を見て方向性を間違えたかと思わなくもないが、これくらい彼女のボルテージを上げた方が遠慮なく甘えられるだろうと風太郎は結論づけた。

 

 

 


   上杉風太郎と、中野一花。互いに寄り添い甘えられる存在を得た二人に、怖いものなど何もない。愛を知った二人は、もう無敵だ。

 

 

 


「よし、一花。一緒に寝るぞ」

「ええっ!?  ホントにヤるのっ!?」