スタイルチェンジ #5

 


   ───思い出すのは、転校した学校で出会ったあの日。少女は後に知ることではあったが、初対面ではなく、再会だった。

   旭高校への転校二日目、昼休みの食堂にて。


   真面目だけど意地っ張りな末っ子。そんな彼女に話しかけようとしていた少年は、最初は末っ子を狙っているものかと思っていた。五つ子の長女であり妹思いの少女ではあるが、少年に対して警戒心などを抱くことはなく、むしろ少年に興味を持った。

   少女が初対面の異性に話しかけるのは珍しい。今まで特別気になる男性など存在しなかった少女なのだ。頻繁に男性に告白される彼女にとって、男性とは話しかけずとも相手から寄ってくるものなのである。


   実際に話してみると意外と男らしい一面もあって、悪い人でないことはすぐにわかった。からかいがいがあって見ていて面白いと感じ、素直に仲良くできたらいいなと思えた。しかし、少女から見た少年の性格は真面目なガリ勉くん。どう見ても自分とは正反対なその在り方を見ると、仲良くなるのは難しいかもしれない。

   なのに、なぜだろう。背は高くとも第一印象は地味目でパッとしない感じだというのに、なぜかあの少年の存在は目に焼き付いている。もうその姿を忘れることはなさそうだ。


   今なら、その理由はわかる。面白そうだとか、そんな軽いものではない。彼の姿を一目見た、あの時からきっと。心のどこかで感じていたのだろう。

 

 

 


   もしかしたらこの男の子は、私の───

 

 

 

 

   公園を後にした風太郎と一花。二人は電車に乗って移動し、今は見慣れた風景の映る通学路を歩いている。

   現在の時刻は14時半。一般的な高校生はまだ学校で学生としての本分を全うしている時間だ。ここで二人が警察に見つかったら即座に補導一直線コースである。

   だが、一花はそんなのお構い無しと言わんばかりの幸せそうな表情で風太郎の腕に抱きついており、風太郎も落ち着いた表情でそれを受け入れている。誰もがこの二人組を学校をサボってイチャイチャしているラブラブ高校生カップルと認識し、呪いの言葉を紡ぎたくなるであろう。

   そんな美少女の彼女を得てリア充街道まっしぐらの風太郎。しかし、彼は表情こそ普段通りを装っているが、その心中は決して穏やかではなかった。


(……やってしまった)


   風太郎は隣で腕に抱きついている一花を横目で見る。本当に幸せそうに、風太郎に身を寄せている。浮かれているのかわからないが変装用の眼鏡も装着していない。

   確かに、この少女は風太郎にとってかけがえのない存在、といえるものだ。ゆえに、自分の行動を後悔しているというわけではない。

   だが欲に流されてはいけなかった。教師である上杉風太郎から、生徒である中野一花へのキス。それは完全に彼女と関係を持つ、ということに他ならない。公園でのダンスの前までは、一花以外ともじっくり向き合っていかなければならないと思っていたというのに。気持ちが抑えきれず欲に負けて、自分から決着をつけてしまった。

   それにあたって風太郎が懸念としているのが、今後の家庭教師の仕事だ。生徒の一人と関係を作ってしまった以上、今まで通りに五つ子全員に教えようとしても、絶対にどこかで綻びが生じてしまうだろう。他にも好意を寄せてくる生徒がいるのだから、トラブルになるのは容易に想像できる。せっかく給料を再びもらえるようになったというのに、最悪再び退任の覚悟を決めなければならないかもしれない。自分の未来のためにも自分たちの関係を隠し通すのか、打ち明けるのか、一花と話し合う必要がある。


(……一花は一体、どう思っているんだろうか。こいつだって女優の仕事があるんだから、いろいろと整理しねーと……)


   あれこれ考えているうちに、教師とその生徒はとうとう目的地である教師の家に到着してしまう。妹も父親もいない二人だけのこの家で、一体何が起こるのか。一花は、何を期待して風太郎の家に来ることを望んだのだろうか。いくら恋愛初心者の風太郎でも、この程度の問題は楽勝だ。解答は、おねだりをしてきた時の一花のあのトロンとした表情を思い返せば簡単に───


(……………………いや、ダメだダメだダメだ!いくらなんでもそれはマズい!)


   必死に煩悩を振り払う。確かに風太郎は一花への愛を完全に自覚し、彼女の想いに答えた。とはいえど、そんな初日から一戦交える気はさらさらない。ただでさえ借金返済やその手段の消失の危機で頭がパンクしそうだというのに、これ以上のハプニングは風太郎の許容範囲を超えている。しかしここまで来て彼女を追い返すわけにもいかない。拒絶したら一花が悲しむことくらいは風太郎でも容易に想像できる。慣れた手つきでドアの鍵を開け、一花とともに自宅へ入る。


「……ただいま」

「お邪魔しまーす……」


   まだらいはが通う中学校の授業も終わっていない時間なので、返事をする者は存在しない。居間まで歩き、腰掛ける。さすがの一花も緊張を感じているのか、風太郎から少し離れた位置で正座をしている。長い時を過ごした家だというのに、全く持って落ち着かない。以前家出した五月が来た時にも感じていたそれ以上の緊張が風太郎の心を覆う。気まずい雰囲気が部屋中に充満するのを感じるが、この時間を無駄にしてはいけない。風太郎は脳をフル回転させ、この局面を無事に乗り切る方法を考えようとする。このまま流されるのは確実にお互いの将来にとってマイナスでしかないだろう。

   だが、愛を学んだとはいえど風太郎は恋愛は赤点のド素人なのだ。すぐに解決策など思い浮かぶようならとうの昔に彼女いない歴=年齢の方程式は崩壊している。そもそも、強い緊張で頭が冷静になりきれないこともあって思考は上手くまとまらない。


「ねぇ、フータロー君」


   この場所は今は風太郎だけの世界ではない。長い沈黙についに痺れを切らしたのだろうか。思考を巡らせていた風太郎の脳に、生徒から彼女へとクラスチェンジを遂げた一花の言葉が届く。風太郎へ距離を詰めてきているあたり、少し緊張がほぐれたようだ。

   未だ解決策は閃かないが、二人しかいない空間で彼女の言葉を無視するわけにもいかない。風太郎は一花の方を向き、返事をする。

 

 

 


「……なんだよ」

「その……しないの?」

 

 

 


   上目遣いで、期待の篭る眼差しを風太郎に向ける一花。みるみるうちに風太郎の顔は赤く染まる。彼女が何をご所望かなんて考えるまでもない。


(本気……なのか……!)


   正直なところ、風太郎はどこかで期待していた。こんなお約束な展開はありえないと。こういうものは自分の勘違いで終わり、こちらが悶々としたまま次の展開に移行するのだと。そんな自分に都合の良い流れは、今日の一花を見る限りありえないというのに。

   中野一花という少女は五つ子の中でも大人の雰囲気を漂わせており、男の欲を刺激するような小悪魔的な言動も多い。一花が性に関心があるような様子も風太郎には心当たりがある。それに加えて今日の風太郎への大胆なアプローチを考えると、性に積極的なその姿勢にそこまで違和感は感じない。さすがの風太郎でも、好きな相手とひとつになる行為に全く何も意識しないということはできず、心拍数は跳ね上がり冷静ではいられない。

   しかし、風太郎にも為さねばならない目的がある。ここで誘惑に負けて猿になってしまっては今後の生活がどうなるかわからないのだ。いくらヘタレと罵られようが、ここは折れてはいけない場面である。風太郎は強い意志を持ち、一花を説得する。


「ちょ、ちょっと落ち着こうぜ。俺たち、まだ初日なんだぞ」

「なんで?  あれほど絆と信頼を深めた私たちに、時間なんて関係ないよ。私は愛してるフータロー君と一緒に、いろんな初めてを経験したいの。もちろん───エッチなことだって」

「……!!」

「フータロー君はこんな私のことは、嫌い?  私とはエッチ、したくないの……?」

「っ……!」

「…………」


   場所が変わっても一花の攻めの姿勢は変わらない。上目遣いのまま瞳を潤ませて、求めてくる一花に風太郎は陥落寸前だ。なんとか彼女の不安を否定しようとするも、緊張もあってこの状況を覆せる上手い言葉は出てこない。どう見ても風太郎が劣勢である。


「そ、そういうわけじゃねぇよ。だけど、その───」

「ていうかフータロー君、私の裸見たことあるんだし、今更恥ずかしがらなくてよくない?」

「……へ?」

「それなのに、二乃とも裸の付き合いなんでしょ?  私だってまだフータロー君の裸、見たことないのに……」

「は、はぁ!?  ちげーよお前、あれはただの言葉の綾だ!  大体、一花のだって全部見たわけじゃねーだろ!」


   しかし、打って変わって風太郎への不満を口にする一花。いつのまにか表情も懇願するような上目遣いから愛嬌を感じる頬を膨らませているものに変わっている。あまりに予想外な一花の返答に、風太郎は驚きを隠せない。

 だが、大胆な発言に変わりはなくとも、表情と釣り合わないせいか風太郎の緊張は若干薄れていた。勢いよく、彼女の言葉を否定する。


「まぁまぁ、落ち着いてフータロー君。これはいつもの家庭教師と変わらないよ。ただ授業内容が保健体育ってだけ。ということで……せーんせっ、私にいろいろ、男の人のコト……教えてぇ♡」

「無茶言うな!  保健体育は専門外だ!」

「そっか、じゃあ今回は私が先生だね!  体育は四葉ほど得意ってわけじゃないけど、まかせて!  手取り足取り、教えてあげるよっ♡」

「体育は赤点なんだ!  授業は拒否する!  そもそも授業料は払えないからな!」

「そう?  じゃあ保健にしよっか!  ……こほん。それではフータロー君、保健の授業を始めます。まずは、女性の身体について……」

「話聞いてんのかお前は!  ていうかその手を止めろ!  人の家で脱ごうとするな!  まだ睡眠時間には遠いだろ!」

「ごめん……先生だったら、眼鏡かけたほうがいいよね。よっと……フータロー君、これでどう?  それっぽく見えるでしょー」

「確かに担任はつけてるけどそんなのどうでもいいわ!  こだわりなんざねーよ!」

「えー?  現役JK女優の身体を自由に弄ぶことのできる、せっかくの機会なんだよ?  ほ、ほら、この胸だって、フータロー君の好きに……」

「持ち上げながら言うな、そんなの反則だ!  ていうか先生なのか女子高生なのかどっちなんだよ!」

「ツッコミどころちょくちょくズレてない?」


   繰り広げられるのは一花無双と言わんばかりの過激な発言のオンパレード。それに合わせて彼女自身の表情もコロコロ変わる。どの表情でも顔を赤らめてはいるが、風太郎の彼女の称号を得たせいだろうか、その口振りは絶好調である。

   だが、押されてこそいるが風太郎も負けてはいない。一花の数多の甘言を風太郎は冷静にとはいかずとも、しっかりと彼女の目を見て返せている。言葉による一花の誘惑というものは公園でもあったものだが、さすがに慣れてきたということなのだろうか。


(いや、違う)


   帰宅直後は緊張に思考を妨げられていた風太郎だが、なぜか今は比較的落ち着いている。疑問に対する回答が瞬時に浮かんだ。先程公園で一花と向き合って、自覚したもの。

 

 

 


   間違いない。愛を、知ったからだ。


   一花の愛に触れて、そして、俺も一花への想いを、自覚したから───

 

 

 


「でも、ひとまずフータロー君もいつもの調子に戻ったみたいだね。よかったー」

「っ!?  いっ、一花……」


   ひとり思考の海に溺れかけていたところに一花の言葉が飛んできたため、風太郎は慌てて言葉を投げ返す。すでに眼鏡を外している一花は舌をチロリと出して悪戯っぽく笑うが、そんなお茶目な笑みはすぐに安心感を与える柔和なものに変わる。


「ふざけちゃってごめんね。もっと上手くフォローできればよかったんだけど……大丈夫?ちょっとは落ち着いた?」

「ああ、まぁ……ある程度は」

「そっかそっか!  それなら一安心だよー」


   一花の狙いは風太郎の緊張を解くことであったようだ。最初の過激なセリフはともかく、これ以上風太郎の動揺に付け込まないあたり、本気で風太郎を求めて発言したわけではないことは確かであろう。一花のこの手の空気を読む力というのはさすがだなと風太郎は思う。他人との関係を築くことを無駄と断じていた風太郎には持っていないものだ。

   しかし、これで話が終わりというわけではなさそうである。一花は不安の入り混じる瞳で風太郎を見つめ、問いかける。


「でもね、フータロー君……私、どうしても知りたいの」

「……何をだよ」

「私、嬉しかったんだ。まさか、フータロー君からキスしてくれるなんて思わなかったから」

「…………」

「……あのキスは、OKの返事みたいなものだと思ってたんだけど……違うの?  私を家に連れてきちゃったこと、後悔してる?」

「いや、そんなわけねぇよ」


   一花の疑問はごもっともである。自分たちの関係を明確にする言葉を、風太郎はまだ口にしていない。だが、自分の気持ちは決まっているのだ。返答に迷うことなく風太郎は一花と瞳を合わせ、偽らざる本心を言葉にする。


「あの瞬間、間違いなく俺はお前に見惚れていた。……恋愛なんて、くだらないと考えていたのに。お前の優しさと愛に触れて、想いに気づいてからは、一花の全てが、愛おしくて、たまらなくって。唇に触れたいって、思ってしまった」

「……!」

「……だから。お前の考えてることは、間違ってない。俺は、一花が好きだ。……ああくそっ、死にてぇ……」


   好意を素直に言葉に乗せることの恥ずかしさ。ダンスの時に頭を撫でた時とはわけが違う。下着戦争の時にも味わったこの感覚を、またしても風太郎は経験してしまう。鏡はないが、今の自分の顔は赤く染まっているのは間違いないだろう。


「フータロー君……!」


   それでも風太郎は、自分の言葉で素直な好意を伝えて一花が喜んでくれることに胸が弾む。改めて風太郎は、これが愛なのだと理解する。


「嬉しいな、ありがとう。私も、フータロー君のこと大好きだよ。君の幸せのためなら、私、なんだってしてあげたい。これから先どんなことがあっても、この気持ちは変わらないよ」

「一花……」


   穏やかな笑みを浮かべる一花。彼女の愛と笑顔は、風太郎の心を暖かくしてくれる。いつまでも、見ていたいと感じている。


「……本当に、ありがとう。また、背中を押してもらっちゃったね」

「は?  別になんもしてないと思うが……どうした?」

「んー……まあ、とりあえず……お話を、しよっか。私たちの、これからについて。話さなくちゃいけないことが、あるから」


   しかし、風太郎を癒すその笑顔は長くは続かず、一花は表情を真剣なものに変える。本日風太郎が幾度となく見たお馴染みのパターンだ。風太郎はその度に緊張を感じていたが、今回はそこから好意の直球のコンボが繋がることはない。自分たちのこれからについてというのは、風太郎も考えなければならないと思っていた事柄である。心は依然として暖かいままなのだが、ここは切り替えなければいけない場面だ。風太郎も冷静に、再び正面から一花と向き合う。


「まず、ひとつめ。私たち、今日いろいろあったけどさ。当分私たちの関係は、秘密にしよう。君は、何があっても私たちの家庭教師を辞めちゃダメ」

「……!」

「フータロー君の家の事情、私忘れてないんだから。せっかくまたお給料をもらえるようになったんだから、変わらず私たちみんなの先生でいて。私だけじゃなくて、みんなもフータロー君が必要なんだから」


   関係を明かさずにいよう、という一花の提案。正直なところ、風太郎が望んでいた答えである。上杉家の家計を大きく支えているこの破格の条件のアルバイトは、そう簡単に手離したくはない。風太郎としてはありがたくはあるが、一花は本当にそれでいいのか疑問だ。姉であるがゆえに遠慮しがちなのはよく理解している。無理をしていないか、確認はしっかり取る必要がある。


「……今まで通り、全員に授業をしろってことか……本当にお前は、それでいいのか?」

「当然だよ。君のためにも、私たちのためにも、約束して。フータロー君が私なんかのことを生徒でいていいと思ってくれるなら、私はもう、絶対にその信頼だけは裏切らない。赤点なんて二度と取らない。これだけは信じてほしいの」

「お、おう」


   教師と生徒としての壁を超えてしまった風太郎と一花だが、それは普段の日常においては解消、ということで結論が出た。こちらの事情を汲んでくれる、一花の優しさの篭る提案に風太郎は素直に感謝している。だが、何か引っかかる。


「あと……そうだ。出世払いって、言ってたよね。これから先、私たちの関係がどうなろうと。年末から三年生になるまでの、授業料は絶対に払う。私だってみんなと暮らす中で、改めてお金の大切さを学んだんだから」

「……ま、まあそこは遠慮するつもりはないが……なんだよ、さっきから。どうしてそんな言い方をするんだ」


   風太郎が感じていた違和感はあっさり判明した。私なんかを生徒でいていいだとか、関係がどうなろうとだとか、この関係が壊れてもおかしくはないと考えている一花の物言いである。体力のない風太郎には、男らしい力というものはない。だが、今の風太郎は彼氏として一花を思う心がある。大切な存在と化した一花が自分を卑下るようなその言い方に、風太郎は少なからず不満を感じていた。


「それはすぐわかるよ。そして……ふたつめ。……私にとっては、こっちが本題かな」


   風太郎はモヤモヤした気持ちを拭えないままだ。一方一花は自分の話したいことは決まっているのか、真剣な表情を崩さないまま次の話題に切り替えようとする。風太郎が懸念していた自分たちのこれからということについて結論が出たわけだが、一花にとってはそれよりも重要なことがあるのだろうか。


「私は、フータロー君に嘘をついてるの」


   まるで自分に戒めるかのように口にする一花。その様子は真剣というよりは重苦しい。


「……嘘?」

「そう。今日は道具持ってきてないんだけど、この言葉聞けばわかるんじゃないかな」  

   一花の雰囲気が変わる。彼女の演技の練習に付き合った時の、女優としての一面を感じたあの時間を風太郎は思い浮かべる。しかし、そこから繰り出される言葉は───

 

 

 


「一花、フータローのこと好きだよ」

 

 

 

 

   人間は簡単には変われない。生まれ育った環境の中で形成された価値観や性格を変えるには、大きな動機が必要となる。

   他ならぬ一花自身がそうなのだ。かつてガキ大将のようにわがままな性格をしていた一花は、母親が亡くなって五月が母親の真似事をするようになったのをきっかけに、長女としての自覚をしっかり持つようになった。しかし、自覚が芽生えたところで、自分の根本的な性格の悪さというものは何一つ昔から変わっていないことを一花は今更ながら理解する。


(……当然の、反応だよね。でもっ……!)


   一花の言葉を聞いた風太郎の表情は驚愕に満ちている。せっかく両思いになれたのに、これから話す自分の言葉で彼に拒絶されてしまうかもしれないことが、一花にはとてつもなく恐ろしい。

   所詮、これは一花の自己満足でしかない。彼女もそれは重々承知である。だけど、それでも。

   心から愛している彼に、嘘をついたままというのは許せない。こんな嘘つきの自分でも、風太郎にだけは誠実でいたいのだ。


「一花、お前……なんで、その言葉を……」

「単純な話だよ。あの時の三玖、私なんだ。自分の恋のために私はあの子の姿で嘘をついて、応援してるって言ったの」

「……やっぱ、あの時の三玖は……一花、どうしてそんなことをしたんだ」

「ただの嫉妬だよ」

「……………………は?」

「変装したのは成り行きだけど、ホントそれだけだよ。たとえ妹であっても他の女の子のことなんて話さないでほしい。私だけを見てほしい。そんなくだらない理由で、嘘をついたの」

「…………」


   一花の心の中で恐怖と後悔が蠢く。もともと恋愛を学業から最もかけ離れた愚かな行為と断じていた風太郎だ。間違いなく一花の馬鹿な行動に呆れ、幻滅していることだろう。しかし、それでも一花は続ける。


「私、本当はとても性格の悪い女なんだよ。フータロー君はたくさん私のこと褒めてくれたけど、私は君に褒めてもらう資格なんてないの。お母さんがいなくなるまでの昔の私は、ただの意地悪なお姉ちゃんだったし。四葉のおやつ横取りしたり、集めてた大切なシール勝手に奪っちゃったりさ。四葉に指摘されるつい最近まで、忘れてたんだよ?  どんだけ幸せな頭してるんだって話だよね」


   たとえ、彼に嫌われたくなくても。


「あと、修学旅行の班決めの時。あの時、四葉の様子変だったでしょ?  あれも私のせいなんだ。君と一緒の班になりたかったけど直接アプローチする勇気はなかったから、四葉のお人好しな性格を利用してフータロー君と一緒の班にするように強制させたの。……あはは、私あの子のこと嫌いなのかな」


   誰にも、彼の隣を譲りたくなくても。


「……それだけじゃない。フータロー君に好かれるのは私だけでいいっていう独占欲から、みんなが君のために用意して誕生日に渡そうと思ってたプレゼントを取りやめさせて、私だけが送ろうって画策してたの。二乃にバレて結果的に失敗で終わったけど……考えてたことに変わりはない」


   それでも、彼と本当の意味で結ばれるために。


「これが、私のついている嘘。今の私は四葉たちに意地悪してた、昔の私と同じ。君が信頼して褒めて……好きになってくれた、お姉ちゃんの私じゃないの。私はずっと、優しいお姉ちゃんの仮面を被って、フータロー君を騙してた」


   嘘から逃げることは、許されない。


   我ながら本当に性格の悪い女だと一花は思う。こんな人間だと知って、真面目な風太郎がまだ自分を好きでいてくれるとは、一花には考えられなかった。強い決意を持って暴露した嘘だが、一花の心は沈みつつある。後悔の念はとどまることを知らない。無理だと決めつけずに最初から今日のように素直に好意を伝えていれば、こんなことにはならなかったはずだ。

   どうして、こんなにも好きになってしまったのだろうか。妹を思う姉であり続けた一花がその役割を投げ出してでも、妹の姿を利用してでも、絶対に誰にも渡したくない。そんな黒い感情に正直になり、変化球に頼ってでも手に入れたいと思ってしまった存在。


   理由なんて、わかっている。

   風太郎が一花にくれたものは、両手では抱えきれないほどに大きなものなのだ。

 

 

 


   ひとつ。


   どこまでもまっすぐな飾らない言葉で、正面から私の心と向き合ってくれた。


   ひとつ。


   お姉ちゃんでなければならなかった私をたったひとり、努力を認めて褒めてくれた。


   ひとつ。


   あくまで家庭教師なのに、自分の時間を犠牲にしてまで私たち姉妹のためにお節介を焼いてくれた。


   ひとつ。


   不器用ながらも気遣いを見せてくれるその優しさで、そっと私を支えてくれた。

 

 

 


   ひとつ。


   作り笑いを、見抜いてくれた。

 

 

 


   一花が姉としての自覚を得てからは初めて自分のためだけにしたいと思えた、女優の仕事。それでも一花は、姉として一人前になるまでは話せないと妹たちには内緒にしていた。オーデイションに合格できなかったらどうしようという不安でいっぱいになり、臆病になって仕事から逃げ出していた。

   そんな時に一花を勇気づけてくれたのが、上杉風太郎。当時の一花に自覚は無くともずっと心の底で求めていた、自分の弱さと向き合ってくれる、そして姉ではなくひとりの少女として自分を見てくれる、一花にとってたったひとりの対等な存在。


(フータロー君がいなければ、今の私は……)


   一花は確信している。もし、風太郎が家庭教師を始めて自分の前に現れなければ。花火大会のあの時、作り笑いに気づいてくれなければ。絶対にオーディションに合格することは叶わなかった。自信の無さを拭えないままオーディションに挑んだところで、心から笑うことはできなかったに違いない。付き合いが短い社長ですら、風太郎の存在が一花の最高の笑顔を引き出したと言っていたのだ。あの日にはもう間違いなく、一花にとって風太郎は特別な存在と化していた。


(それなのに……私……!)


   だからこそ、 一花は強い自責の念に駆られている。風太郎が背中を押してくれたからこそ、女優として成功し、夢を叶えることができたのに。そんなたくさんのありがとうをくれた彼に対して自分がしたことは、信頼を、好意を裏切り傷つける、姉以前に人として最低の振る舞いなのだ。一花の心は自身への嫌悪感と風太郎への罪悪感が混ざり合い、ぐちゃぐちゃになる。

   もう、自分が何がしたかったのかすらわからない。結果だけ見れば今日の一花の行動は、自分のわがままで風太郎の貴重な時間を奪ったうえに、彼の愛を踏み躙っているのだから。散々振り回して疲れさせて、それでも一花を好きになってくれたというのに、最終的に失望させている。自作自演の末に自滅という、頭の悪すぎる結末。こんな馬鹿で最低な女に貼られるレッテルは、まさしく愚者の二文字がふさわしい。


(本当に、最低だ。いつも頑張ってるフータロー君が疲れてること、わかってたのに……)


   溢れ出る己への嫌悪感は自己否定へとつながる。何が学校をサボっての秘密のデートだ。ラストを一花自ら台無しにしている以上、風太郎にとっては無駄以外の何物でもないのに。疲労の溜まっていることがわかっていたのにもかかわらず、風太郎を自分の欲のために連れ出して、なんて自分勝手な女なのだろうか。


(……あぁ、そっか。やっと、わかった。なんで、こんなことにも気づかなかったんだろう)


   そして、ここまで自分を否定して、ようやく一花は理解することができた。

 

 

 


(私、何があっても、いつまでもずっと、お姉ちゃんなんだ。なのに……)

 

 

 


   いくら四葉が肯定してくれようが、我慢できないことがあろうが、自分が姉であるという大前提を忘れてはいけなかったのだ。

   なぜなら、妹たちはもちろん、一花が愛する彼も。全員が「姉」である中野一花を信頼し褒めて、好きになってくれたのだから。そうでなければ、こんな性悪女を好いてくれるわけがない。

 姉としての役割を放棄し嘘をついた時点で自分に勝者の資格が消えたことに気づかずに、こうして己の行動を振り返り嘘を暴露するまでずっと、一花は自分が風太郎にふさわしいと思い込んでいた。こんな簡単な矛盾にも気がつかないだなんて、本当に都合の良い頭をしている。

   家族旅行から今日まで、およそ一月に渡って一花が犯し続けた過ち。姉ではなく女として身勝手に独り占めしたいと願ってしまったがゆえに、風太郎からの愛も、共に築きあげた絆も、全て失うこととなった。風太郎は、真面目で妹を心から大切に想う兄の鑑のような人間だ。姉失格である自分の風太郎からの好感度が底に堕ちることは一花の想像に容易い。


(……もう、終わりだ。こんな最低なお姉ちゃんの私を、フータロー君は好きでいてくれるわけない)


   愚かとしか言えない自分の行動と救いようのない頭の悪さに、もはや一花は絶望することしかできない。姉でない自分は自己中心的で性格の悪い、ただの嘘つきである。風太郎が褒めてくれた、立派な嘘つきとは違うのだ。その事実は一花が風太郎を諦めるには、あまりにも十分すぎた。

 

 

 


   結論。こんな心の汚い女には、風太郎の隣で笑顔でいる資格はない。

 

 

 


「……フータロー君。ここまで聞いてさ、今の私をどう思うかな?  君を独り占めしたくて妹たちの心も姿も利用するような卑しい女、フータロー君が好きになる理由なんてなくない?」


   躊躇いなく自分勝手な欲のために妹を利用する女なんて、嫌われて当然だ。勉強のできない一花でも、これはただの自業自得でしかないことは理解できる。だけど、痛い。本心を隠すのなんて、慣れっこのはずなのに。


「嫌いに、なったよね。軽蔑、したよね。……ほんの少しでも私なんかを好きになったこと、後悔、してるよね。本当に……私の勝手で、嘘をついて……無駄な時間を過ごさせてしまって、ごめんなさい」


   いたい。いたい。こころが、いたい。それでも一花は耐えるほかない。どれだけ心が辛くても、この場面で涙を流すことは絶対にしてはいけない。

 なぜなら、被害者は騙されていた風太郎なのだから。加害者である一花が悲劇のヒロインを気取る資格はどこにもない。ただでさえ下がり切った評価を覆すことは無謀だというのに、ここで嘘つきとして強がることすらできなくなったら、生徒でいることすら許してもらえないかもしれない。


(屈しちゃダメ、自分の心に、負けちゃダメ!  私には、こんなことしかできないんだから……!)


   一花は頭を下げつつも拳を作り、折れそうな心を強く持つ。普段通りを装えば、彼も気兼ねなく拒絶できるという判断からだ。作り笑いは見抜かれても、口調と声色さえ明るくできれば、きっと風太郎を騙せるだろう。悲壮を悟られないために、至って何事もないように一花は告げる。


「だからさ、今日の出来事は全部なかったことにしよう。フータロー君はうっかり風邪ひいちゃって、私は仕事で学校行けなかった。今日はそういう日だったんだよ。私たちは今まで通り、教師と生徒。やっぱり、それ以上になんてなっちゃダメなの。ねっ、フータロー君」


 あとは心に鍵をかけるだけで、一花の恋は終わる。これからはずっとお姉ちゃん。家族旅行以前の、誰もが求め信頼してくれる、模範的な優しい姉の中野一花に元通りである。でも、何もかもが遅すぎたのだ。いくら自分の行動を後悔しても、風太郎の信頼を裏切った一花は、二度と彼から愛をもらうことは叶わない。

   それでも、再会して間もないのに自分の弱さを見抜いてくれて、背中を押してくれたこの世でたったひとりの男の子。そんな風太郎を、一花は愛している。これほどまでに夢中になってしまった恋は、これから先一生訪れないという確信が彼女にはある。だからこそ、辛い。初恋は実らないという現実は、一花の心を打ち砕く。


「そうか。嘘を、ついていたのか」


   完全に失意のどん底にある一花の元に、風太郎の声が届く。怒気は感じないが、優しい風太郎は必死に怒りを抑えているのだろう。やはり、風太郎はとても優しい。そして、そんな彼の優しさを利用した自分を、一花は許すことができない。ゆえに少女は、鍵を回す。


「……そうだよ。私は別に、フータロー君のことなんて、好きじゃないから」


 これで完璧だ。なにもかも嘘にしてしまえば、心置きなく風太郎は一花を嫌いになれるだろう。関係の解消を望んでいるであろう風太郎のために一花ができることは、もうこれしかないのだ。

 結局一花の恋は、自分はおろか風太郎も傷つける、バッドエンドそのものでしかなかった。だが、とても最低な結末ではあったとはいえど、風太郎と過ごした日々と彼がくれたものを、一花は一生、忘れることはない。


(ごめんなさい……フータロー君……でも、どうか、ひとつだけ……)


   自分がしたことは到底許されることではないとわかっていても、わがままな一花は願ってしまう。確かに存在した、今日という一日。


(もう、一生嫌われたままでいい。フータロー君が望むなら、私は君の生徒でいることも諦める。この学校からもいなくなるから、二度と君の前に現れないから!  だからお願い、この思い出だけは……!)

 

 

 


   どうか、私が姉ではなく、中野一花というただのひとりの女の子として甘えることができた今日の幸せなひと時を、胸にしまっておくことだけは許して───

 

 

 


「それがどうした。俺は反対だ。お前がなんて言おうが、俺は一花が好きなんだ。お前との一日をなかったことにするだなんて、そんなの絶対に認めねぇぞ」