スタイルチェンジ #4

 

「んー……」


   風太郎が目を覚ますと、視界に映るのは雲ひとつない青空。そして、膝枕をしてくれた少女の胸。一瞬その存在感に驚くが、さすがに風太郎も少しの慣れを感じていた。先ほどのように取り乱したりはしない。一花も目覚めた風太郎に気づいたようで、声をかけてきた。


「おっはー。熟睡してましたなぁ」

「すまん、完全に寝ちまってたぜ。今何時だ?」

「今は午後1時をちょっと過ぎたくらいだよ。だいたい1時間くらい寝てたかな?」

「そうか……悪いな。膝、疲れただろ。すぐ起きるわ」

「はーい。少しは休めた?」

「そうだな、よく眠れたよ。ありがとな」

「全然お礼を言われるようなことじゃないよ。私の方こそ、フータロー君が素直に私に甘えてくれて嬉しかったんだから!」


   今日はもう何度も見たはずの少女の笑顔。笑顔のバリエーションに事欠かない中野一花という少女ではあるが、今の笑顔は優しさを感じるもので心を乱されることのない、純粋で見ていて気持ちのいいものだ。


(本当に楽しそうだな、一花)


   それを受けて風太郎も自然と笑みがこぼれ、暖かい気持ちになる。振り回されてばかりではあるが、この笑顔を見れたならそれもまたいいかと風太郎は思う。

   勉強のことしか考えていなかった自分がこんな時間を居心地の良いものだと思っていることが、風太郎には驚きである。教科書を読破し、理解した程度で満足していた、かつての風太郎では知ることのなかったであろう未知の世界。日常に彩りを与えてくれたのは一花だけではなく、二乃、三玖、四葉、そして五月。誰一人欠けてはいけない、中野家の五つ子全員だ。生徒でもあり友達でもある彼女たちに、風太郎もまた支えられている。


   だが、徐々にこの関係に変化が訪れていることは風太郎も気がついている。告白してきた二乃はもちろんのこと、今日は一花からも熱烈なアタックを受けている。三玖はよくわからない。応援すると言っていたが、本当なのだろうか。

   とにかく、少なくとも二人以上の生徒が、自分に好意を寄せてきているということ。この事実から逃げるわけにはいかない。いずれ、決着をつける必要がある。誰か一人を選ぶのか、もしくは誰も選ばないのか。今はまだ結論が出ないが、彼女たち一人一人の気持ちと向き合い、決断を下さねばならない。そんな決心を風太郎が密かに固めていると、ベンチから立ち上がった一花が風太郎の方を向き、先ほどと同じ純粋な笑みを浮かべながら話しかけてきた。


「フータロー君、今日は一日ありがとう。私のわがままに付き合ってもらってばっかりで、大変だったよね」

「お前に任せるって言ったのは俺だ。今日だけの特別だし多少はな。友達として、一緒にサボるのは今回限りだ」

「もちろんだよ。だけど、もうひとつ。聞いてほしいわがままがあるの」

「聞くだけならタダだ。勿体ぶらずとっとと言え」

「……うん」


   話しているうちに一花の表情から笑顔は消え、真剣なものに変わる。そのまま表情を変えることなく、風太郎に手を差し伸べてきた。

 

 


「フータロー君……お願いです。今日ここで、私と一緒に……踊って、くれませんか?」

 

 


   踊る、という言葉を聞いて、上杉風太郎が思い浮かぶのは災難続きだった秋の記憶である。

   散々な目にあった林間学校。楽しい思い出ももちろんあったのだが、それ以上にトラブル続きで落ち着かない出来事が多すぎたと風太郎は記憶している。

   その中でも特に印象に残っているのは一花と二人して倉庫に閉じ込められた時のことだ。ベタなラブコメじゃあるまいし、あんな出来事はなかなか起こらないだろう、というのもあるのだが、忘れられない理由はそれだけではない。


   真面目ではなくてもしっかりと長女をしていて周りをよく見ている、頼りになる一花。

   そんな彼女の、涙を見てしまったからだ。


   あの時は一花が泣いた理由など考えてもわからなかった。デリカシーがないとは言われるが、風太郎自身は一花は自分と踊ることに抵抗を感じていると思っていたのである。人気者の一花と、学校では変人扱いの風太郎。そんな正反対の二人が一緒に踊っている場面を見られたら、周りから怪訝な視線を向けられることは間違いない。お互いに都合の悪い噂がたつ可能性もある。ゆえに、一花も本心では踊りたくないと考えているのだと信じて疑わなかった。

 

 


   でも、今ならそれは間違いだとわかる。

   あの時、一花が流した涙の理由は───

 

 


(───あぁ、そうか)


   目の前の少女はかつて花火を一緒に見られない、と宣言した時と同様の真剣な表情だ。しかし、あの時と同じようにどこか震えているようにも見える。風太郎のスタンスをよく理解しているがゆえに、断られることに怯えているのだろうか。

   そして、風太郎は気づく。一花は心の底ではずっと、信頼できる誰かに寄り添いたかったのだと。


(きっと、お前は───どんな時でも、長女だからって強がって、我慢して。誰にも頼らないで、一人で戦ってきたんだな)


   思えば新居に住み始めた時もそうだった。三年生に進級して家賃を五等分するまでは、すべて一花が一人で生活費を稼いでいたのだ。不平不満何一つこぼさずに、妹たちに心配させないように、私生活に影響が出るレベルで働いていた。強い絆で結ばれている妹たちには当然見抜かれていたが、そんな一花だからこそ妹たちからの信頼も厚いのだろう。

   性別は違えど、一花と自分の妹に対する想いは互いに相違ないと風太郎は思う。愛しい妹には心配はかけたくないという気持ちは風太郎も持っているものである。だが、一花の場合は五つ子だ。風太郎が想像もつかないくらいの、一花には多くの苦悩や葛藤があったのだろう。あの時の涙がそれを象徴している。姉として常に妹たちを気遣う日々を過ごす中で、一花は自分の本心を隠すことが当たり前になっていたのかもしれない。

   それでも弱音を吐かずに、五つ子の長女であり続けた一花。そんな一花の姉としての立派な姿に、風太郎は心の中で敬意を表する。


(お疲れ、一花。今まで本当に、よく頑張ったな)


   答えは決まった。結局この場所でも最初から最後まで心をこの少女に乱されてばかりではあるが、そんなことは関係ない。今日一日は、彼女専属の家庭教師であり、友達なのだ。そんな強い優しい一花に好意を寄せられていることを、悪く思うわけがない。

   少年は、手を差し伸べている少女の手を取り、優しい声色で言葉を発する。


「いいぞ、一花。踊ろうぜ。だから、もうちょっと肩の力抜けよ」

「えっ、私……で、でも、ホント!?  踊って、くれるの!?」

「ああ、付き合ってやるよ。だけど誰か来たら即中断だからな」

「いいのいいの!  嬉しいな……ありがとう!」

「ったく……お前、そんなにあの時踊りたかったのかよ。ていうか俺、踊り方なんて知らんぞ」

「大丈夫だよ!  なんとなーく、それっぽくでいいの!  こういうのは雰囲気が大事なんだよっ」


   不安もあった反動か、この日一番の笑顔を見せる一花。どうか、せめて自分といる時だけでもその笑顔が曇らないでいてほしいと風太郎は思う。二人は芝生が広がる公園の中央まで移動し、向かい合う。

   一花のスマートフォンからスローテンポな洋楽が流れ出し、彼女のリードに合わせて風太郎もゆっくりと動き出す。フォークダンスとはいえど人生で初めてということもあって風太郎の動きはぎこちなく、素人感丸出しのものである。不慣れさを感じさせない一花の動きに、お遊戯とはいえどさすがの風太郎も男として恥ずかしさを感じる。本当に、周りに誰もいないのは幸運だ。


「お前、全然動けるじゃねーか……」

「えへへ、ありがとっ。いつかリベンジしたいなって思ってて、密かに練習してたんだよ。役作りにもなるかもだしね」

「……そうかよ」


   ぶっきらぼうに返すも、風太郎は一花が如何にこの時間を夢見ていたかを思い知る。二乃のことも放置してはおけなかったとはいえ、林間学校の時は本当に軽率な判断をしてしまったと今更ながらに思う。勝手に一人で結論を出さずに、一花としっかり話し合うべきだった。事情を話せば、中野一花という少女は親身になって聞いてくれるのだから。


(それでも、きっと、一花は……)


   だが、それで一花が納得する結論が出るかと言われると疑問が残る。風太郎が思うに、仮に自分の事象を話したとしても、一花は間違いなく姉として妹を優先し、二乃のところに行ってあげてと言っていたであろう。並の人間には見抜けない、偽物の笑顔を浮かべながら。

   今まで姉であろうとして自分の想いや弱さを隠し、妹を優先してきた一花。姉という肩書きは、きっと一花を縛り続けていたのだ。もしも風太郎が、一花と出会わなければ。花火大会のあの時、彼女の作り笑いに気づかなければ。ずっと一花は姉としての自分に縛られて、本心を隠し続ける日々から抜け出すことができないままだったのかもしれない。

   そんな誰の前でも強がって弱みを見せようとしない一花ではあるが、風太郎になら全てをさらけ出せると語っていた。姉としての自分ではなく、ひとりの女の子として。風太郎は今日だけでこれでもかというほどにぶつけられた、一花の真剣な気持ちを思い返す。

 

 

 


『ありがとっ、フータロー君!』

 

 

 


『この世でただ一人、君だけなんだよ』

 

 

 


『私にとって君はただの友達なんかじゃない。心からの信頼を寄せられる、とても大切な存在なの』

 

 

 


(あ─────)


   そうか。そういうことなのか。

   少年はようやく理解した。彼女が、こんな勉強しか能のない自分を好いていてくれる理由。

 

 

 


   中野一花にとって、上杉風太郎とは。初めて姉としてではないありのままの姿を見せることができる、たったひとりの対等な存在なのだ。


   そしてまたひとつ、確信できた。胸が高鳴るのを感じる。ずっと、こうありたいと思って、そのために家族以外の人間関係をすべて断ち切ってまで目指していた、理想の自分。

 

 

 


   お前はずっと、俺を必要としてくれていたんだな───

 

 

 


   あなたが必要。少年に戦うきっかけをくれたその言葉を、一花は口にしたわけではない。しかし、風太郎の気持ちは昂ぶっている。憧れていた少女と五月から直接言葉で伝えられた、あの時以上に。この違いはなんなのだろうか。


 ───考えるまでもない。これが、家族旅行の時にはやたらと耳にするもわからなかったものである。

   それは、溢れんばかりの一花からの愛だ。この世で上杉風太郎というただひとりの男にのみ向けられる、真剣な気持ち。かつては学業から最もかけ離れた愚かな行為と馬鹿にしていたものを、もう否定などはしない。教師として、友達として。そして、男として。彼女の想いに応えたい。

   鈍感な風太郎でも今ならわかる。姉としての面倒見の良さなど関係なしに、一花はずっと前から、自分を気にかけてくれていたのだと。他でもない風太郎を、ずっと必要としていたから。

   彼女の愛に触れて、風太郎自身の気持ちもはっきりした。出会ってそう経っていないにもかかわらず一花の笑顔は見分けられたのも、きっと、なんとなくではない。姉としての一花の姿を見る前から。

 

 

 


   俺も、お前を、心のどこかで───

 

 

 


「…………」


   いてもたってもいられない。風太郎は一花に合わせて動かしていた足を止め、繋いでいた手を離す。少年にはどうしても今、少女に伝えたい気持ちがあった。


「……フータロー君?  疲れちゃった?  なら、そろそろやめ───ふえっ!?」


   風太郎の行動に驚くも、気遣いを向ける一花。そんな思いやり溢れる一花に風太郎は手を伸ばし、彼女の頭を優しく撫でた。


「どっ、どうしたの……?」

「……嫌だったか?」

「えっ、そんな、嬉しい、けど……」


   狼狽えている一花が微笑ましい。一花が自分の想いを伝える度に笑顔を見せていた理由を、風太郎は理解することができた。

   とても心が暖かい。間違いない。これが───


「急に止めて悪かったな。仕切り直そうぜ」

「うっ、うん……」


   今度は風太郎の方から手を差し出す。一花には予想外だったようで、頬を赤く染めながら風太郎の手を取った。

   一曲目とは別の洋楽をかけ直し、再び二人は踊り出す。一花はどこか緊張した顔持ちで、風太郎は安らかな気持ちのまましばらく踊っていたが、突然変化が訪れた。ステップを踏み外した一花が、よろけそうになったのだ。


「きゃっ……!」

「おっと」


   至近距離だったため、とっさに腰に手を回して一花を支えることに成功する。偶然にも、これはダンスの締めにはふさわしいのではないだろうか。風太郎自身体力もなくなってきたところであり、これは好都合だ。


「おいおい、大丈夫かよ?  ったく、お前は」


   ふと、風太郎は今の自分たちの状態は、林間学校の時の倉庫で丸太が倒れてきた際に、一花を支えた時と似たシチュエーションであることに気づく。先程頭を撫でた時の一花の反応を見てから、胸の奥で悪戯心が芽生えている風太郎。ならば当然、この後に続く言葉は一つだ。


「相変わらず、ド───えっ?」


   しかし、風太郎はお決まりの煽り文句を最後まで言うことはできなかった。なぜか自分の身体が目の前の一花とともに、芝生へ倒れこもうとしているのだ。すでに一花を支える力は緩めていたが、それでも支えきれないなんてことはないと───原因が判明した。

   いつのまにか、一花の手は風太郎の首の後ろに回されている。一花はそのまま体重をかけてきたのだろう。滑り台の時のように先手を取られたかと焦る風太郎は、彼女の上気した赤い顔にはまだ気がつかない。


   そうして少年と少女は、ゆっくりと芝生に倒れこむ。


   そしてそのまま、少年は何も考えられなくなった。頭が真っ白になる。いきなり倒されたことによる抗議の言葉も浮かばない。浮かんでいたとしても、口にすることもできない。

 

 

 


   風太郎の唇に、一花の柔らかな唇が重なっているためだ。

 

 

 


   少女のいきなりのその行為に、少年は目を見開いたままだ。目をつぶりながらも、風太郎の唇を堪能している一花の姿が視界に映る。

   二度目とはいえど風太郎はこの感触はまだ慣れていない。身体がふわふわ宙に浮いているような、現実味のない不思議な気分だ。しかし、一花の唇の感触はしっかりと風太郎に伝わっている。

 

 

 


   どれくらい時間が経ったのかわからない。まだ、ふわふわしている。柔らかい。気持ちいい。ずっと、このとろけるような甘い感覚に浸っていたい。以前の旅行でのキス以上に愛を感じる今回のキスに、らしくもなく風太郎はそんなことを考えていた。

   だが、そんな優しい時間も永遠ではない。長いキスに息苦しさを感じて、ようやく風太郎は現実に引き戻される。それは目の前の一花も同じのようで、二人の呼吸は息ぴったりと言わんばかりのタイミングで唇が離れた。そして───

 

 

 


「フータローくん……すき。だいすき。あいしてるの」

 

 

 


   少年が余韻に浸る暇はない。頬を赤く染め、藍色の瞳を潤ませて、少女はゆっくりと告げる。


「あなたと、であえて、よかった。あなたをすきになって、ほんとうによかった」


   さらに続けて一花の口から紡がれる愛のこもった言葉。それはかつて一花の演技の練習に付き合ったあの時間を思い返させるセリフだった。

   瞳も、髪も、唇も。何もかもが愛おしく思える。少年は少女の全てから目が離せなくなり、魅了されるがままであった。


「ねぇ、フータローくん。わたし、フータローくんのいえ、いきたい……」


   言葉の内容は理解できたが、未だに頭は覚醒していない。長時間のキスで酸素を奪われたせいか、それとも胸のドキドキが収まらないせいか。おそらくどちらもなのだろう。少年は言葉を発することができず、ただただ少女を見つめることしかできなかった。


   しかし、少年の答えはすでに決まっていた。言葉で示せないなら、行動で示せばいい。

   今度は少年から少女に唇を重ねることで、少女のおねだりに応えた。

 

 

 

 

   少年の行動に少女が驚いたのは一瞬だけであった。嬉しい。大好き。幸せ。様々な好感情が胸の中から湧き上がる。その少女の心情たるや、舌を絡ませてしまおうか悩んだほどだ。

   今度は絶対に自分からは唇を離さない。この時間を、いつまでも忘れないために。少しでも長く、大好きな彼とつながっていたい。


   苦しくなったのか、風太郎の唇が離れる。柔らかくも暖かい感触が薄れていくことに寂しさを覚えるも、一花の心は満たされていた。

   本当に、勇気を振り絞ってよかった。今日一日のこの思い出だけで、少女は一生生きていけそうな気さえしていた。両想いなのを確信できる、風太郎からのキス。もう誰の手にも渡したくない。

   だが、そうはいかない。キスの余韻に浸りつつも、一花はこれからやらなければならないことを考えていた。

   確かに少女は少年への真剣な想いを伝えて、少年はそれに答えてくれた。しかし、まだこれだけでは二人のハッピーエンドを迎えることはできない。

 

 

 


   忘れてはいけない。自分が、嘘をついているということを。

   告げなくてはいけない。今の自分は、上杉風太郎が好きになってくれた中野一花とは大きくかけ離れているということを。

 

 

 


   風太郎と恋人関係になる上で打ち明けなくてはならない隠し事は多く、その過程で彼に嫌われてしまうのではないかという一花の不安は大きい。しかし、すべて自分で蒔いたものだ。責任を持って、嘘偽りなく全てを打ち明ける必要がある。変化球でかわすことは許されない。

   少女のキスの相手はすでに余韻から冷めたようで、立ち上がり手を差し伸べてきた。一花は風太郎の手を取り微笑み返すも、一つの決意を胸に秘める。

 

 

 


   ───大好きな君に、私の全てをさらけ出す。

 

 

 


   中野一花、最後の直球勝負だ。